「インドネシア未来図~女性映画人は語る」シンポジウム

Symposium / 第29回東京国際映画祭

周囲の男性の理解とサポート

松下:カミラさんはいかがですか?

カミラ:この中で私が最年少ですが、インドネシアの映画業界は、監督でも別のポジションでも、女性に対していつもオープンだったと思います。かなり長い間、インドネシア映画はある種の「昏睡」状態にあって、停滞していた時代があります。再び動き始めたのは90年代に改革、民主化があってからです。私は当時高校生でしたが、そのときの映画人に、ここにいるニア、ミラ・レスマナ*2 、そしてナン・アハナス*3 といった女性たちがいました。つまり、女性がインドネシアの映画産業を再び目覚めさせたんです。そうした流れ(実際に活躍している女性たち)を見ていたので、女なのに映画が作れるだろうか、女なのに監督になれるだろうかという疑問は全くありませんでした。

*2 プロデューサー。リリ・リザ監督作品のプロデュースで知られる。1995年に映画製作会社MILES FILMSを設立し、若手監督作品のプロデュースも手掛ける。

*3 映画監督。2002年の東京国際映画祭コンペティション部門で『ベンデラ―旗―』(2002)が上映されている。ドキュメンタリー作品も監督している。

シンポジウムで語るカミラ監督の写真
(c)2016 TIFF

カミラ:もちろん、ニアやモーリーが言うように、社会的にはやはり女性の役割というものがあるのだと感じます。インドネシアは、女性の大臣や元大統領がいるという点ではオープンだと言えます。しかし、文化・宗教的な意味では、女性が様々な役割を同時に担うことは簡単なことではありません。社会の中で、私は母であり、妻であり、映画監督であるわけですが、一般にはその全てをやりきるのはちょっと難しい状態にあると思います。
私の場合、幸いにも家族の男性、つまり、父や義父、そして特に夫のサポートがあるので、本当に感謝しています。彼らは私がやりたいこと、作りたいものを理解し、いつも応援してくれます。今日この場に登壇している私たち全員が、そういう周囲の男性のサポートを受けていると思うんですね。
ですが、いわゆるインドネシアの一般社会の女性は、私たちが受けているようなある種の特権的なサポートは得られていない方が多いと思います。また、インドネシアは父権社会でもあるので、父親の力は非常に強いです。

松下:カミラさんは、パートナーもイファ・イスファンシャーという映画監督で、今回のCROSSCUT ASIAで『CADO CADO(チャドチャド)〜研修医のトホホ日記』(2016)が上映されます。そして、カミラさんのお父上はインドネシア映画の巨匠、ガリン・ヌグロホ監督ですね。モーリー監督のパートナーも脚本や製作をされている方で、そういった意味でも恵まれている、周囲の理解がある環境にいらっしゃるのかもしれません。メイスクさん、何かつけ加えることはありますか?

メイスク:映画業界の話に戻りますが、女性の数は増えていると思います。特に、管理するポジション、つまり製作の現場に携わるプロデューサー業に女性が多く進出しています。女性監督やカメラマンも増えてはいますが、まだ少ない状況です。それでも、カミラが言ったように、現代インドネシア映画というべきもの、その革命を起こしたのは女性だったので、将来的には非常に希望が持てる状況だと思っています。

「実際にあること」と多様性の描き方

松下:では、ここで客席の皆さんからの質問を受け付けます。

質問者:私はインドネシア人ですが、今日はニア監督の『三人姉妹(2016年版)』、そして以前、モーリー監督の『愛を語るときに、語らないこと』を観ました。インドネシア映画では「女性は髪を隠さなければならない」、「女性はこうあるべきだ」というような描写が多い中で、お二人の作品にとてもショックを受けました―性に対する描写や女性の描き方がとても西洋的だなと思いました。インドネシアではこうした映画に批判的な、保守的な方がたくさんいると思うのですが、お二人はどのような観客をターゲットとして考えていらっしゃるのでしょうか。

シンポジウムで語るモーリー監督の写真
(c)2016 TIFF

モーリー:私の映画の登場人物、特に女性は、私が実際に知っている人から着想を得ています。西洋的だと言われることもありますが、それは私が性的なテーマに関してかなりリベラルな視点を持っているからだと思います。『愛を語るときに、語らないこと』では、目が見えない学生と耳が聞こえない学生の性的な関係を扱っています。それは私がリサーチして実際にあったことなのですが、そういうことは誰も表立って話題にはしません。今、インドネシアで物議を醸すようなテーマを扱っているとご指摘を受けましたが、たしかに私は特に性的なテーマをよく取り上げます。こう言ってはなんですが、なぜインドネシアが2億5千万人もの人口なのかというと、みんなセックスしているからなんですね。けれども、インドネシアでは性に関する話題は表に出すことはないのです。私は映画に今インドネシアで実際に起きていることを反映させたいと思っているので、インドネシアの観客の中には、居心地悪く感じる方もいるかもしれません。

ニア:私が思うに、みんな自分たちの文化のルーツを忘れてしまっているのではないでしょうか。たとえば、インドネシアの古いお寺では女性が胸を出しています。また、東部の方、たとえば『三人姉妹(2016年版)』の舞台にしたフローレス島では、みんなサロン*4 を着ています。それは、ジャカルタの文化とは全く異なるわけです。しかし、これを西洋的と言うでしょうか? 違いますよね。とてもインドネシア的だと思います。
ジャワ文学にも『スラット・チュンティニ』という古典があります。この書物にもセックスについて語られている部分があります。人間というのは皆、性的な存在なんです。そうでないと、子どもは生まれてきませんよね。
ジャカルタやスラバヤ、バンドンの女の子たちが休暇でバリに行くと、みんなビキニを着て歩いています。昨日、『三人姉妹(2016年版)』のポスターを見た方から「これがインドネシア映画なのですか? インドネシアの女性はヒジャブを被っているのではないのですか?」と言われたので、「私はインドネシア人ですが、ヒジャブは被りませんよ」と答えました。メディア等で喧伝されているイメージがまさにそういうものなのでしょう。でも現実に目を向ければ、私のように髪を隠さない女性もいるわけです。
初めに申し上げたように、インドネシアでは今、女性をより保守的にさせようという力が働いていると思います。インドネシア社会の中にそういう力があるのです。その一方で、映画というのは、実際に起きているけれども社会で語られていないことを語るため、偽善を壊すためにあるのだと思います。映画には多様化を促し、正直に語る、そういう力があると信じています。

*4 民族衣装。ロングスカートのような腰衣。

松下:ニア監督の力強い言葉とともに、これにてセッションを終了いたします。本日はありがとうございました。

シンポジウムの様子の写真
(c)2016 TIFF

参考

  • 本特集で上映の特別冊子を国際交流基金ライブラリーで貸出し、および数量限定で配布しています。メイスク・タウリシア、カミラ・アンディニ、そしてモーリー・スリヤを迎え実施した「インドネシアの若手女性映画人が語るジェンダーと多様性」(40頁〜44頁)と題した座談会の記事が掲載されていますので、ぜひお手に取ってご覧ください。
  • 本特集の提携企画「CROSSCUT ASIA #03 カラフル!インドネシア2」の特別冊子に、メイスク・タウリシア執筆の「映画の多様性、文化の多様性」(8頁)が掲載されています。こちらも国際交流基金ライブラリーで貸出し、および数量限定で入手できますので、ぜひご覧ください。
  • 本シンポジウムの動画はこちら。※日英

メイスク・タウリシア(プロデュース作)

カミラ・アンディニ

モーリー・スリヤ

ニア・ディナタ

編集:西川亜希(国際交流基金アジアセンター)
通訳:富田香里