上映会の前半では、各作品の上映の後に監督および作品関係者による挨拶と、京都大学東南アジア地域研究研究所の山本博之准教授による作品解説を行った。(各作品の詳細および登壇者のプロフィールはVisual Documentary Project 2019小冊子PDFを参照)
歌で自らを癒す1965年の事件の犠牲者たち『私たちは歌で語る』
監督:ドニ・プトロ・ヘルワント、撮影・編集:アブル・アラ・マウドゥディ・イルハムダ(インドネシア)
1965年にインドネシアで起きたクーデター事件に伴い、政治犯として投獄された女性たちが数多くいた。彼女たちはその後「ディアリタ合唱団」を結成し、自分たちの経験した真実を歌にして語り継いでいる。その活動の様子を収めた作品『私たちは歌で語る』はインドネシアのテレビ局DAAI TVのテレビ用ドキュメンタリー作品として制作された。上映後に監督のドニ・プトロ・ヘルワント氏と撮影・編集のアブル・アラ・マウドゥディ・イルハムダ氏が登壇し、監督は「この作品に出てきた方々は1965年の事件の犠牲者です。1980年代生まれの私はその実態を知り悲しみ、また同時に罪悪感を持ちました。30年間のスハルト政権が与えたトラウマについて深く思いを馳せています。深いトラウマを抱えた女性たちはディアリタ合唱団を結成しますが、歌で自分自身を癒しているのです。私は本来国がすべきことを彼女たちがしているように感じました。この映画を観ることでこの国の悪い面だけを見るのではなく、なにか良いことに繋げていけないか、そういうことを皆さんに考えていただきたいと思います。」と語った。
山本博之准教授による解説
1965年9月30日にインドネシアでクーデター未遂事件が起きました。背後に共産主義者がいるとされて共産主義の関係者への大弾圧が始まり、一説には50万人~100万人が殺されたとされる大きな事件となりました。政治犯として収容された人たちもいました。それがこの作品に登場した人々です。収容された人々は十数年たって釈放されましたが、様々な権利が制限されて、事件から50年以上経った現在も差別に苦しんでいます。共産主義者を怖いと言って排斥する側と共産主義者だと言われて排斥される側とに社会が分かれてしまった時、社会は対立をどうやって和解させ亀裂を修復することができるでしょうか。そこには二つの道があるように思います。一つは裁判などを通じて誰が何をしたのかを白黒つけることで、責任のありかを明確にして新しく出発する方法です。もう一つは、誰が何をしたかを明らかにして白黒をつけることはせずに、被害を被った人たちの名誉を回復して暮らしを良くしていくように努力する方法です。この作品は後者の力を借りているように思います。今日、そのほかの作品についても見るときにもこのことについて考えてみていただければと思います。
土地を奪われ抗議行動を続けるホンさんに1年密着した『落ち着かない土地』
監督:グエン・ティ・カーン・リー、編集:グエン・トゥ・フオン(ベトナム)
次に、ベトナム・ホーチミン市の新都市計画が進むトゥーティエムで土地を奪われて抗議運動を続けているホンさんに焦点を当てた作品『落ち着かない土地』が上映され、監督のグエン・ティ・カーン・リー氏と編集のグエン・トゥ・フオン氏が登壇。監督は「ベトナムの南部ホーチミン市の新都市計画は東南アジアの中で一番大きな都市になることを掲げ20年計画の建設が進行中ですが、その計画によって一部の住民の方が被害を受けていることはあまり知られていません。新しい都市が完成する前に、このような弱い立場に立っている人がいたこと、活動を起こし戦っている人がいたという事実を残したいという思いで制作しました。撮影のため一年間ホンさんと行動を共にしましたが、勇気のある素晴らしい女性だと実感しています。」と話した。
山本博之准教授による解説
ホンさんの迫力があふれた作品でした。本来の開発用のエリアでなかった土地まで収容してしまった役人たちを名指しで告発する作品でしたが、ベトナムでドキュメンタリー映画というと政府の功績をたたえる作品が多く、このように政府に批判的な作品が作られることはまずないと伺っています。そのため制作過程では大変な思いや苦労をされたと想像します。さて、この作品をジャスティスというテーマから考えてみると、前の市党書記が悪者で、ホンさんたちが被害を被った犠牲者だという善悪の構図が明らかです。しかし、汚職や本来の計画以外のところで土地を収用したという明らかに悪い部分を取り除いたときどうなるか、一歩引いて考えてみたいと思います。政府が元々計画したエリアだけ開発して新しい工業開発地帯を作ったとしたら、その土地を追いやられた人たちのことをどう考えればよいでしょうか。政府は定められた手続きに則って開発を行います。しかしそこから出ていかなければいけない人たちもいます。経済開発を行えば、多くの人たちにとって便利で快適になるので、多くの人がより幸せになるのがよいと考えれば喜ばしいことです。しかしその陰で少数の弱い人たちが犠牲を強いられるときに、全体のことを考えてどのように経済開発を進めればよいのでしょうか。この作品はそのような疑問も問いかけているように思います。