苔と埃と人の心
こんな光景を思い浮かべて欲しい。教室、黒板、生徒たちでいっぱいの何列もの机。黒板のそばには——ホワイトボードでもいいけれど——木が立っている。その木が今日の先生だ。
それが教室をどのように変えるだろう?
教室に生徒たちがいなくなってから、インドでは1年半以上が経つ。たぶん、ほとんどのほかの国々でもそうだろう。マンゴーの幼木がわたしの背丈より高くなるのに十分な時間だ。わたしは想像上のマンゴーの木とわたしを比べてみる。わたしが木と比べるに値するからではない、わたしが教師だから。もしマンゴーの種が、ロックダウンになったばかりのあの2020年の夏に根付いていたら、教室に立つ教師になるぐらいに育っているだろう。
マンゴーの木の授業は、わたしの授業とどんなふうに違うだろう?
ベンガルの公立の学校やカレッジの教室、その隣には池があって、小川があって、1年のうち何か月も水に浸かったままの校庭がある。その水はしょっちゅう小さな階段を1段か2段上ってきて、箒で掃き出されるまで教室に居座る。でももう何か月も、溜まった水を追い出すものはいない。床はすっかり滑りやすくなって、苔でぬるぬるしている。そしてそれらもまた教師なのだ。
それが教室をどのように変えるだろう?
それに、手や肘や学校鞄で毎朝擦られることもなくなったせいで、溜まりに溜まった埃もある。それらも今や教師である。
その木や水や苔や埃は、教室に何をもたらすだろう?わたしたちが今まで目にも留めなかったような何を?
そしてまた、人間には我慢のならない蜘蛛の巣というものがある。長いあいだ取り払うものもいなかったせいで、あたりかまわず周りじゅうに広がっている。それはある種の提喩でもある——姿は見えなくても、わたしたちはその作り手を思い浮かべることができる。タージマハルを見てシャージャハーンを思い浮かべるのはなぜだろう?あるいは、蜘蛛の巣を見ると蜘蛛を思い浮かべるのは?けれども、背の高いアパートが並んでいるのを見るとき、名もない建設労働者や技術者や設計者を思い浮かべることがないのはなぜだろう?その人たちのおかげでそれらが建っているというのに。あるいはハイウェイの脇の並木や広場にぽつんと立っている木を見て、わたしたちはそれを植えた人を思い浮かべることはない。この違いはたぶんわたしたちの、人間や仲間に対する考え方にある。あるいは、そう思うにまかせているだけかもしれないけれど。
ここから学べること——蜘蛛の巣と、ものごとの創造主に関するわたしたちの選択的な想像力について。わたしたちは歌を聴くときには歌手を思い浮かべるのに、電話を手にするときそれを作り出した科学者を思い浮かべないのはなぜだろう?あるいはマンゴーを手にしたとき、それを与えてくれる木を思い浮かべることがないのは?このあるものは無名のままで、あるものは署名でも残したかのように認知される、という事実は、わたしたちの心の内に根付いたヒエラルキーを物語っているのではないだろうか?
こうしたあれやこれやの考えが浮かんできたのは、北ベンガルはバグドグラ近くの村の、打ち棄てられた学校を通り過ぎているときだった。学校のブリキの屋根は錆びついていて、教室は——三つ以上はなかったろう——その距離からはよく見えなかった。苔と蜘蛛の巣と埃がその場所を占領していたが、それは人間が建物のコンクリートの支柱や金属でその土地を占領したのと似ていた。わたしが歩いて通り過ぎようとするその場所は、人間活動の凋落ではなくて、共存の新しいありようを示している。それは年を取るにつれてその膝や関節を受け入れていくのと大差はない。人間の品位や知恵は、もはや取り戻しようのない若さを追い求めようとはしない、その代わりにあるもの、残されたもの、それでなんとかやっていかなければならないものを知るのである。そしておそらくわたしの思考が自然と向かう先は——この今というときからどんな教訓が引き出せるのか、この学校生活の長い空白について教師は生徒になにを語ろうとするのか、そして教科書が——もしそうしようとするのなら——このときについて、この長いときについてなんと語るのか、ということになるだろう。わたしたちは科学から学ぶことになるだろうが、同時にそれはいわく言い難い人間としての心から来るものでなければならない。もしトラウマや心の傷が記憶に刻まれるのであれば、わたしは心の広がるさま、慣れ親しんだ外の世界へと手を伸ばしていくさまも記憶に刻まれるといいと思うのだが。
土や埃や苔や植物がかつて自分たちのものであった空間を取り戻そうとしたように、人の心も自らの空間を取り戻そうとしているとわたしは信じたい。わたしたちの心は巨大な資本主義の横行や極端な個人主義によって縮こまることを余儀なくされ、関心を持つ範囲もほんのわずかな人々に限られてきたが、誕生ではなく死がわたしたちを結び付けるこのパンデミックは、否応なしにわたしたちがお互いに分かちがたく結び付けられていることを見せつけた——そのわたしたちの影には、宗教もナショナリズムもない。そして人の心は、当然ながら落ち着きを失い、愛情と関心の存在するどこか見知らぬ空間を求め始めたのである。
世界がロックダウンに入ったとき、「自然が癒された」と言うのは簡単だったし、あえて言えば愚かしくもあった。たしかに最初のころはそのようにも見えた——まるで自然というものが、粉々になった膝か切断された筋肉かなにかで、安静にする時間がありさえすれば癒されるとでもいうように。人々は以前より青くなった空、白くなった雲、満月や山々が以前よりくっきりと見えるようになったことを報じた。それから踏みつけにされた道に草木が戻り、なかば打ち捨てられた空間に植物が生い茂り、蜂や虫が本来自分たちのものであった空間を我がものとしていることを。これはいわば似て非なる言説で、国際的な新たな神話の創造だった。あたかも人間らしい生活やわたしたちが占めてきた場所が破壊されたこととバランスを取ろうとするような。この言説はすぐにそれ自体自滅してしまったけれど。そしてただひとつの感情だけが残されたのは必然だった——悲しみと不安——このふたつは分かちがたいひとつの感情の表と裏なのだ。人間の精神も、ふたつの関連する、そして正反対とも言える方向に自ずと向いていった。物理的には世界からできるだけ身を潜めていること、それと同時に感情としてはできるだけ広がって行こうとすること——目に見えない、見慣れない世界、見知らぬ人の世界、酸素ボンベや抗ウィルス薬や、生き延びるための現金を必要とする人々、知っている人も知らない人も含めてわたしたちが助けたいと思う人々へと。わたしはこの対照的なふたつの方向を目の前に思い浮かべようとする。肉体を持つ人間としては物理的にどんどん縮んでいき、それと同時に、外の慣れ親しんだ世界、親族や友人や知り合いのいる世界を取り込もうと心がどんどん拡大していくさまを。それはなんともバランスの悪い想像図である。心が占める不動産は、肉体が占めている不動産よりずっと大きいのだ。ああ、そんな状況が長く続いてくれさえすれば。ほとんど永遠であるほどに。
おそらく肉体を持つ生き物が帝国主義的になるのは自然の摂理なのだろう。必要以上に占有したがること、つまり、人がひとつ以上の家を持とうとしたり、ライオンであれば森全体を支配しようとしたり、苔であれば壁全体を埋め尽くそうとする、などなど。それは結局のところ、再生しようとする本能なのだ。わかりきったことと知りつつあえて言っているけれど、それはコロナウィルスもこの同じ衝動で動いているということを思い出すためだ。ウィルスも、それが「生き物」と思えないにしても、同じようにできるだけ多くのホストを求めているにすぎない。これほど恐ろしく、トラウマを引き起こすようなものでなかったら、滑稽と言ってもいいくらいだ。例えばハリウッド映画の黙示録的想像力を働かせてみよう。恐竜であるとか、エイリアンであるとか、怪物であるとかの大規模な攻撃のあとで、実際に人間が戦っているのはおそろしく小さくて裸眼では見えないものだったというわけで、巨大産業的想像力に対してなんともあっけない結末ではある。
こうしたあれやこれやのあいだ、わたしはずっと人間の心について考えてきた。心と言ってもわたしが言っているのはインド諸言語共通の「マン」のことで、精神と心が合体したもののことだけれども。その境界線はどこにあるのだろう?それはどこまで届くことができるのだろう?わたしは空気や水や炎や、あるいは光といったもののことを考える。その移動に限界のないようなものを。心はそれらすべてを内包している。そしてそのどれよりも早く移動することができる。どこまでも小さくなれるし、考えられうる限り最も伸縮自在なものなのだ。それは人が望む限りのものを内に秘めることができるし、ときには人が望んでいないものすらそこには存在する。心というものは、ほとんど無限にものを詰め込むことができる一方で、けっして過密になることはない。
喜びや痛み——それらは洗い流される。歩いたり眠ったりすることの記憶のように。それらは自然な生活のリズムだから。それらは季節を彩る花のようなもの——それらはまた戻ってくる、それぞれの歩調、で、それぞれの時間に従って。それでは、今というこのとき、終わりのないように感じられる、怖れと焦燥感のこのときから残るものは何なのだろう?わたしたちはこのときの何を記憶しているだろう、変わりばえのしないこのとき、繰り返しのように思えるこのときの何を?終わりのないモンスーンでさえなければ繰り返される雨のようなこのときの何を?死というものが、かつてそうであったようにもはや衝撃ではなくなったときを生き抜いたあとで、心には何が起こるのだろう?
ダルシャン——ある日突然神にまみえること——を信じている人のように、わたしはこの、予想もしていなかった、普通ではない日々を通して、人の心の動きを見た。その遠心力のような力、外へ外へと手を伸ばそうとするさま、開いていくさまを。まるで花びらのように。そしてそこから連想されるものがわたしを立ち止まらせる。花は咲いたあとで果実をもたらす。それではこの人の心は?花開いたのちに、どんな果実をもたらすのだろう?
わたしはその果実を目にするのを待っている。あるいは、心が苔になるのを。それは広がることをやめはしない。