『新たな世界、新たな自分』 アグスティヌス・ウィボウォ/西野恵子 訳

Essay / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インドネシア)

新たな世界、新たな自分

僕たちは奇妙で新たな世界へと踏み入れた。2020年の幕開けは熱気に満ち溢れていた。東京オリンピックも、ドバイ国際博覧会も、それはそれは素晴らしいものになるだろうと期待されていた。シンガポールも、ロンドンも、ドーハも、空港には喧騒が漂っていた。これから旅に出ようとする人々は、熱心に休暇の計画を練っていた。中国のある町で謎の呼吸器系疾患が流行しているというニュースが伝わってきても、それ以外の地域に住む世界の多くの人々はあまり気にも留めていなかった。

でも僕は知っていた。これは普通の病気ではないことを。2003年、北京が重症急性呼吸器症候群(SARS)に見舞われたとき、僕は従来型のコロナウイルスにかかったのだ。あのときは、街の空気すべてが、命を奪う恐ろしいウイルスに覆われているように感じられた。中国政府は、すぐに強烈な対策を講じた。それは、万里の長城を築いた民族にしかできないようにも思える解決策だった。彼らは「壁」を強化したのだ。町を封鎖し、会社や学校を封鎖し、集合住宅を封鎖した。この策が功を奏し、わずか数か月のうちにSARSは過去のものとなった。

ところが、新型コロナウイルスに見舞われた世界の状況は、SARSのときとは大きく異なっている。グローバル化が進んだこの世界では、大量の人間が容易に移動できるようになった。それにより、武漢や中国の他の地域で実施された超厳重な封鎖をもってしても、他国への蔓延を防ぐことができなかった。イラン、イタリア、イギリス、ブラジル、アメリカ、インド、インドネシア……。新たな流行中心地が、世界中で次々に発生した。中国にしかできない「大げさな」解決策だと思っていたものが、瞬く間にあちこちで採用されるようになり、当たり前のものとなった。封鎖・検疫・さまざまな形態の社会的制限は、どこにいようとも、ほぼすべての人間が経験する現実となった。

パンデミックは、グローバル化の流れを押し戻した。低価格で自由な旅を実現した飛行機栄光の時代は、突如終焉を迎えた。世界中の全パスポートが、一瞬にして同価値になった。つまり、どこの国民であろうと誰もが皆、どこへも行くことができなくなったのだ。僕だって、旅に出ることができない、旅行作家となってしまった。危険な病気が蔓延するさなかにおいて、不要不急の外出は、とても贅沢なものとなった。それと同時に、自己中心的で、分別のないものともなった。

おまけに、世界は冷たくなった。以前のような人と人との温かい関わり合いがなくなった。僕にとってこれは、旅の道中に絶対不可欠な要素だ。パンデミックが作り出した身体的な距離が、心の距離までも遠ざけた。人々はますます警戒感を強め、見知らぬ者にはことさら疑ってかかるようになった。少しでも咳や咳払いの音が聞こえようものなら、マスクの向こう側にある顔から顔へ厳しい視線を浴びせ、そこから遠ざかり、消毒液をつけて両手をせわしなくこすり合わせる。

週が移り変わり、月が移り変わった。パンデミックは、楽観的な人たちが想像していたよりも遥かに長期間、継続している。どれほど長い時間家に引きこもっていようとも、生活の歯車は確実に回り続ける。そこで、平常時には考えられないような、さまざまなラディカルな解決策を取らざるを得なくなった。

以前は定刻に出社することを重要視していた会社も、今では全スタッフが在宅勤務になろうとも、生産性を保つことを余儀なくされている。学校だって、対面ではできなくても、年間を通して授業を行わなければならない。パンデミック以前には多くの人が不慣れであったバーチャル会議のアプリケーションも、今では日常生活と切り離せないものになっている。

パンデミックによって、世界は、グローバル規模の社会的実験のための研究所へと変貌を遂げた。人間の生き方に、大規模なデジタル革命をもたらした。大都市の中心部から僻地に至るまで、すべての人が否応なしにデジタル・コミュニケーション技術を導入しなければならなくなった。パンデミックは、あらゆるものをオンライン化した。オンライン勤務、オンライン授業、オンライン卒業式、オンライン会議、オンライン同窓会、オンライン結婚式、オンライン葬式、オンライン礼拝、オンラインスポーツ、オンライン観光、オンラインショッピング、オンライン診療……。今や、ジャカルタの道端で食べ物を売る移動式屋台の商人だって、デジタル決済を受け付け、マーケットプレイスからオンライン注文を受けている。この新たな変化に素早く適応できない者が取り残され、押しつぶされていくであろうことは疑う余地もない。

パンデミックが始まった頃、仕事を失いかけている多くの人と同じように、僕も不安に苛まれた。文芸フェスティバル、本の展示会、リテラシー討論会、執筆講座等、人が集まるイベントはすべて中止となった。僕のような作家にとってこれらは、重要な収入源であるにも関わらず、だ。しかし、パンデミック時代のテクノロジーのおかげで、これらのイベントはすべてバーチャルへと場所を移した。瞬く間に、僕の部屋も撮影スタジオへと変身した。ビデオカメラ、マイク、三脚、緑色の背景布、リングライト……。Zoomでバーチャル会議を終えると、次のルームでバーチャルセミナーを行い、そこからInstagramYouTubeの生配信へと移る。そうする合間にも、ソーシャルメディアへ投稿し、写真をアップする。朝から晩まで、こんな調子だ。

パンデミックは、悪い面ばかりではない。パンデミックによって僕たちは、より狭いソーシャルバブルの中に閉じ込められたことは確かだが、バーチャル世界で関わり合いを持つようになったこともまた確かなのだ。情報・知識・アイデアの交換も、より頻繁に、広く安く行われるようになった。僕が担当する執筆講座のクラスだって、以前は一つの町に住む十数名の生徒しか参加することができなかったが、今では数百名の参加が可能になった。彼らは、国内最遠の地や、ヨーロッパやアメリカからも参加してきている。バーチャルで開催される文芸フェスティバルでも、僕たちは家を離れることなく、世界的に著名な作家と直接対話することが可能になったのだ。

パンデミック時代のデジタル革命により、仮想世界にある学びの場はさらに広がった。僕たちは、数十億本におよぶYouTube動画や、数百万時間におよぶポッドキャストの放送に、あらゆる知識を見つけることができる。自宅にこもる間、僕は、アメリカの心理学教授による「害のある人間関係」に関する講義を100時間もむさぼり、オーストラリアのセラピストによるセルフラブの瞑想に関するウェビナーに参加し、恐怖症を克服するために蛇の動画をたくさん観た。そしてもっとも僕の生活を変えたのは、投資に関する知識だ。

パンデミックは、金融セクターにおける革命のきっかけとなり、今や、信じられないほど簡単に株式投資家となることができるようになった。僕たちは、最低限の資金さえあれば、ガジェット画面を指でタップするだけで株式を売買できるのだ。もちろん、僕のような初心者投資家には学ぶべきことも多いのだが、YouTubeが優秀な先生となってくれる。海外の専門家から国内の実務者に至るまで、数百におよぶ教育系動画から、基本的な分析法や技術的なことを学び、財務諸表や価格動向チャートを読み、キャッシュフローを予測し、市場のタイミングを検討する。僕にとって、以前は神の言葉にも思えた経済用語が、今では明白で親しみのあるものとなった。

インドネシア証券取引所のデータによれば、パンデミックの起こった2020年、株式投資家の数は56%も増えたそうだ。家にいるのが退屈で、何かしら新しい活動が必要になった人が多かったのかもしれないし、ますます大きくなる不確実性に対峙するために、受動的所得を望む人が多かったのかもしれない。僕を含め、こういった新規の投資家たちは、「コロナ時代の投資家」と名付けられた。ふと周りを見渡すと、かなり多くの知人が、実は市場のプレイヤーであることを知った。カフェでは、ミレニアル世代やZ世代の若者が、ビットコインの話に興じるのが聞こえてくる。マンションのエレベーターでは、デジタルバンクの株式チャートについて、ひそひそ声で話す人がいる。僕の新聞編集者だって、毎日、挨拶がてらポートフォリオについて訊いてくる。まるで、天気について尋ねることが習慣になっているイギリス人みたいだ。

変化は、必然だ。人間とは災害に順応する素晴らしい能力を持った生物であるということを、新型コロナウイルスのパンテミックが証明してくれた。これまでの歴史上でも、数多くのパンデミックが発生しているが、最終的には、人間の生活にとって利点がもたらされてきた。14世紀に発生した恐ろしい黒死病のパンデミックでは、一般庶民の生活水準が向上し、ヨーロッパにルネサンスが誕生するきっかけとなった。20世紀初頭のスペイン風邪のパンデミックでは、保健衛生サービスが向上し、医療技術革新のきっかけともなった。新型コロナウイルスのパンデミックは、デジタル革命で、僕たちをどこまで運んでいくのだろう。これは誰にもわからない。

いずれにせよ、僕たち人間は、檻の中で生きる定めにある生き物ではない。長期にわたる移動制限により、精神障害や人と人との交流パターンの変化という形で、新たな異常が発現した。僕は、人々の顔に笑顔を見ることを、心待ちにしている。僕は、握手をしたり、生きた人間に触れたりすることを、待ち焦がれている。僕は、人間の声がない部屋の静寂を破るために独り言が多くなったとき、僕自身の何かが強烈に間違っていると感じている。

もちろん、近しい友達と連絡を取るために、インスタントメッセージやバーチャル会議のアプリを起動するのは容易いことだ。しかし、数多くのバーチャル会議やウェビナーをこなすうちに、アプリを使ってお喋りをするということが、気晴らしというよりは仕事のように感じられるようになった。たぶんこれが「Zoom疲れ」シンドロームと呼ばれるものなのだろう。数々のウェビナーに参加するだけでも疲れるというのに、スピーカーを務める場合にはなおさらだ。僕は、生のない機械に向かって話しかける意欲を保ち続けることができるよう、自分自身を絶えず励まさなければならない。そして、スピーカーとして長時間にわたるセッションが終わると、ベッドに体を投げ出し、一晩かけてエネルギーを回復させるのだ。

パンデミック以前に幼少期を享受した僕たちは、なんて幸運なんだろう。毎日家にこもって画面に向かい続けるパンデミック時代に育つ子どもたちは、なんて可哀想なんだろう。5歳の子を持つ父親である友が、心配事を打ち明けてくれた。その友の子は、この1年他人と会うことが皆無であったため、知らない人と対面するとヒステリックに泣きわめくことがあるそうだ。

僕たちの世界は今、静かで内向的に見える。しかし仮想世界においては極めて騒々しく外向的である。今日では、ステイホームする人々も、かなり積極的に生活のあらゆる場面——体を揺らして踊る姿から、昼食のメニュー、ジョーク、飼い猫の様子、取るに足らないコメント、寝起きでしわくちゃの顔まで——を事細かにソーシャルメディアへ投稿している。パンデミックの年には、わずか1分の間に、500時間を超える動画コンテンツがYouTubeへアップロードされ、69万5,000ものストーリーズがインスタグラムへ投稿された。

それは、娯楽が際限なく生まれ出るところとなり、困難な時代のストレスを和らげるため、僕たちにとってますます重要なものとなっている。パンデミックによって何か月もの間家にこもった結果、僕たちは疲れ、恐怖を感じ、気持ちが落ち込み、孤独を経験したことは確かだ。さらには、親戚や友達から度々悲報が届く。ベッドに寝ころび、画面に映るソーシャルメディアを流し見したり、Netflixのシリーズものを観たりすると、ほっと落ち着くような気がする。そしていつの間にか3時間が経過する。僕たちは、目を開けたまま釘付けになるよう、アプリやテレビに催眠術をかけられてしまうのだ。しかしその後、スッキリとした状態からは打って変わり、むしろ倍にも感じられる疲労感に襲われる。罪悪感に苛まれ、人生が空っぽに感じられるのだ。

僕は、株式投資を知ってからというもの、ソーシャルメディアへの依存度が少しばかり減った。とはいえこれは、ライオンの口から逃げ出し、ワニの口へ入るようなものだ。僕が所有する株式価格が急騰すると、アドレナリンが分泌され、心拍数が高鳴り、手には冷や汗をかく。ドーパミンによる幸福感は、僕をさらに深くのめり込ませるよう、麻痺を引き起こすアヘンのようだ。

投資によるメリットは、財政難という僕の不安を大きく軽減してくれたことだ。しかし、昼食を無料で食べられるということではない。毎日、市場取引時間の間じゅう、変化し続ける数字の表とチャートに張り付き、脳は高速回転を強いられるし、指は決定を実行するために機敏に動かなければならない。市場が下落したときには、一瞬で体中に痛みが走り、緊張が募っていく。朝に株、昼に株、夜に株。睡眠中だって、僕の夢の内容は株のコードだ。

旅とは、パンデミックのさなかではそうすることが困難な、物理的な移動のことだけを指すのではない。パンデミック中にできる、そしてピッタリな旅がある。それは、自分自身の中を旅することだ。

僕は毎日、朝夕にそれぞれ1時間ずつ、瞑想するための時間を設けている。静寂の中で僕は、鼻の穴から出入りする呼吸を一回一回観察し、心臓の鼓動を一回一回観察し、やって来ては去っていく記憶の破片と感情を一つ一つ観察する。そして週末2日間は、スーツケースへすべての機器を入れて鍵を閉め、デジタルデトックスを行う。

喧騒と変化の急速な流れの中にあっても健康でいるために、僕にとってこの静かな時は重要なのだ。デジタル世界の喧騒が収まってくると、体と思考がリラックスし、僕は自分自身の実態と再び繋がる。禅の先生が言っていたとおり「静かな水の中に初めて自分の姿を見ることができる。激しく流れる水の中には見えないものだ。」ますます奇妙で理解困難なようにも思えるこの世界を理解するために、静寂の中で、思考がよりクリアになっていく。

変化がある一方、人生の本質はバランスである。僕たち人間は、変化し続けると同時に、新たなバランスを探し続ける生き物だ。現実と理想のバランス。マテリアルとスピリチュアルのバランス。欲望と謝意のバランス。自分が生き延びることと仲間への配慮のバランス。意味を見失い迷ってしまうことがないよう、急激な変化の中においてバランスを保つことは、極めて重要なのだ。

幾重にも次元が重なり合い、ときには矛盾しあう闘いの中で、僕たちは皆、この困難な状況に奮闘している。一方では目に見えないウイルスと闘い、もう一方では経済的なニーズを満たすために闘う。そして激しい変化に順応し続けようと闘うと同時に、自分自身のバランスを保とうと闘う。どこで終わるのか、どのように終わるのか、誰にもわからない、至極長い闘いだ。