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『ライフ・エクステンション』 ジャヌアール・ヤップ/山下美知子 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(フィリピン)

ライフ・エクステンション

手順はわかっている、もう1枚5セント銅貨を/マシーンに入れておくれ/なんだかひどい気分だから、聴きやすくて哀しい曲にしておくれ…」——フランク・シナトラ、『あの娘に1杯(そして旅路のためにもう1杯)』

ノイ・ロミーはコブラの毒、サギン・ティンドック*1に秘められている効能、それにナガ市ウリン地区の崖の上に建っている自宅の前に生えているガジュマルの木の上でローソクに火をつけることなどを試しました。しかし、彼の血圧は相変わらず高く、時々ふらふらしたり、排尿感を覚えたりしました。これらは血管中の糖が再び上がったことを示していました。去年、保健センターを訪れたとき、彼はパティコル医師から血糖値と血圧が高すぎると伝えられていました。レモングラスを煎じたり、口いっぱいにニンニクをほお張ったりもしましたが、役にたちませんでした。豚の脂身でスープを作り、細切れの肉を手でまるめて、炊きあがってきているご飯の上に置いたりするなどは体にとってはとんでもないことです。白いご飯の一粒一粒が輝いていましたが、彼がこの白いご飯を手でつかんで口にいれるときは更に輝きを増しました。彼の妻のミラがまだ生きていて、彼にこのようなことを止めるように言う人がいたら、状況はまだ良かったでしょう。彼は亡くなった妻の写真を飾っている写真スタンドの表面ガラスを古いハンカチで拭きました。彼女の髪の毛はほとんど色褪せてしまっていて、ふっくらしていた頬の面影はなくなっていました。寡夫となった彼は、小さな小屋に1人で住み、自分ですべてをこなしていました。

*1 料理用バナナの一種

これは大変なことでした!特にパンデミックが流行っている現在では。

彼はラジオでアナウンサーが「高齢者は逮捕される」と言っていたことを覚えていました。高齢者は外出を禁じられていました。高齢者、特に基礎疾患がある彼は、新型コロナウィルスに感染しやすいため自宅から離れることが禁じられていました。「まあまあ、年配者は家にいるように。これからはふらふらするのはやめましょう」とセブではよく知られているベテランアナウンサーのボビー・カルンソッドは言いました。

ノイ・ロミーは竹のベッドから起き上がりました。半ズボンがベッドから突き出ていた釘にひっかかり、尻の部分が破れる音がしました。背中にズキズキする痛みを感じましたが、痛みのことは医者には伝えていませんでした。この痛みのため、ほとんどすべての骨が、油が切れてしまっているのに油が差されていない機械のように砕けてしまいそうでした。

彼は電池を節約するためにトランジスタラジオを消しました。彼には、町の中心街に行ってもらってエバレディ・ブランドの9ボルト電池を買って来てくれる人はいませんでした。町の中心街にたどり着くには、バイクで3つの村を横切る必要がありました。このことはカンサムロイ村とティナックローバン村近くの穴ぼこだらけのでこぼこ道をハンドル操作しながら下って行くことによる疲れは言うまでもなく、ガソリンの無駄使いでした。ハンドルを切りそこなえば、道の下を流れる川の激流に飲み込まれている姿で見つけられることでしょう。近くに住んでいた甥が前年に結婚していたので、今では自分でやっていくしかありませんでした。彼がさまざまの用事を指示できたのはこの甥だけでした。近所にはほかに頼れる人はいませんでした。

彼は小さな衣装ダンスの棚を引き出しました。このタンスの上には妻の写真が置いてありました。小さなプラスチックの袋の中には、ライフ・エクステンションという名の健康維持薬を含め、薬で残っているものはありませんでした。ライフ・エクステンションは彼に食欲、定期的な排泄、安眠をもたらしてくれていました。薬はたぶんコブラの毒と混ざってしまったのでしょう、というのもあたかも血管がねじれたようになり、首筋が張らないですんでいました。

彼はほぼ3週間、ライフ・エクステンションを飲んでいませんでした。あと1週間飲まなかったら、首筋が再び張ってきて、血液が凝固するでしょう。ラジオをつけましたが、聞こえたのは数秒間だけで(「そして今終わりが近づき…」)再び聞こえなくなり、音が出なくなりました。彼は電池を取り出し、太陽の光に当てるため窓の所に置きました。数字の9をくぐり抜けた猫*2のように、これらの電池が再び使えることを願いました。電池は太陽の下に置くと、その寿命が9倍に伸びるはずでした。人間にとっても同じであるべきでした。太陽の下では、人間の寿命も数年は伸びるので、ライフ・エクステンションは必要ないはずでした。

*2 エバレディ・ブランド9ボルト電池のロゴの猫

彼が最後にバイクを満タンにしたのは3月でした。満タンにしておいて運が良かったと言えます。というのもロックダウンが4月に始まったからです。ビニグニットの材料を買うために人々が市場に押し寄せたため、聖週間の後に感染者が増えたからです。彼は高齢者が持つノートと薬の処方箋がウエストポーチにあるかどうか確認しました。紙はしわくちゃになっていて、ノートのページは、彼の顔のしわに似ていました。医者の手書きの処方箋はほとんど読めませんでした。処方箋にはライフ・エクステンションは書かれていませんでしたが、彼はラジオで、この薬の効能について聞いていましたし、同年配の隣人からも同じことを聞かされていました。

エンジンを10回ほど踏み込んで、バイクが動きました。すぐにアクセルを踏んだところ、エンジンの音が戻りました。「ふぅ、この持ち主のように、このバイクもなんとか機能している」と自分に言い聞かせ、カンサムロイ村とティナックローバン村へと続く道を猛スピードで突っ走って行きました。その日、彼は元気だと感じていました。というのも、家の裏に生えているモリンガの木の葉を摘み、久しぶりにスープを作ることができたからです。

2つの村の間にある険しい地区に到達するのに時間はかかりませんでした。彼はどこに大きな隆起があるのか、よくわかっていたので、これらを避けるため向きを変えました。3回失敗し、大きな岩にぶつかりましたが、バランスを取り戻し、下を流れる川に突っ込むことなく通り抜けました。「ああ、このバイクはまだ丈夫だ」と彼は言いました。

小道に到達すると、生活のためにハバル・ハバル*3を運転している友人のカトールが彼を見つけて叫びました。「ノイ・ロミー、こんなところで走り回って何をしているんだい?コロナウィルスに感染するぞ。あんたは高齢者だろ、必ず捕まるぞ!」

*3 乗客を乗せて走るバイク

「おや、ドン*4・カトール、誰を脅そうというのだい?」こう言うと、彼はタリサイ市に続く国道に入って行きました。ノイ・ロミーは交通渋滞のない道路を時速80キロで走っていました。「まさにこれが道路ってもんだ——競争がない!」と彼は言いました。町や市の境界での検問とロックダウンが始まって以来、公共交通機関の運行は運休となっていました。30分もしないうちに、タリサイ市との境が見えてきました。しかし彼は立ち往生していると思われる車の列を見て驚きました。前方に検問所と道端の車列を目にしたとき、彼はギアをローに入れました。「クソッタレ」、ノイ・ロミーはつぶやきました。このまま進んだら、逮捕されるかもしれません。彼がもう一度アクセルを踏むと、一瞬で時速120キロ近くになりました。そのまま走って検問所に近づくと、警察官が警笛を吹き、パトカーのサイレンが鳴りました。ノイ・ロミーはこれらを無視して、警察が追って来るかどうか考えもせずに検問所を猛スピードで通り過ぎました。頼りにしている薬局まで全速力で走っていたので、彼はサイドミラーには目をくれませんでした。パトカーのサイレンの音と警笛は消えうせました。彼が追跡されていないのは確かでした。

*4 年下の男性への敬称「ドドン」の省略形

数キロ走ったところで、ラグタン地区にあるエリクシール・ショッピングモールに着きました。薬局があるあたりは人がいなくて静かでした。警察はたぶん彼を追ってはいなかったのでしょう。彼はバイクを停め、薬局に入ろうとしたところ、警備員によって中に入るのを阻止されました。

「ノイさん、あなたは高齢者ですよ、なぜここにいるのですか?高齢者は外出することを許されていませんよ!」

「ドン、私のために使い走りをしてくれる者は誰もいないのだ、ライフ・エクステンションを買う必要があるだけだ」と彼は警備員に言いました。

「ちょっとここで待つように」と警備員は言いました、「ノイさん、私が聞いてきます、というのも本当に禁じられているからです」、警備員は薬局の女性店員に高齢者に対応できるかどうか聞いてくれました。

「だめです、許可されていません、高齢者は外出すべきではないのです。彼はどうして誰かに頼まなかったのですか?」と女性の店員は言いました。

ノイ・ロミーは薬局の中にいる女性が言ったことが聞こえたので、次のように答えました。「ダイ*5、私にはここに来てもらうことができる者などいないのだ。ライフ・エクステンションを私に買わせておくれ。使いきってしまったのだ!」

*5 年下の女性に対する敬称「インダイ」の省略形

「ノイさん、それはできません、禁じられています」と女性が言い、警備員がドアを押しながら閉めたため、ノイ・ロミーは仰向けに倒れました。怒りにまかせて、老人は立ち上がり、バイクのシートの下から何かを取り出しました。ノイ・ロミーは、彼がアイスピックを振り回している光景にあぜんとしている警備員に向かって行きました。彼はまっすぐにカウンターに行き、女性店員を脅しました。「店にあるすべてのライフ・エクステンションを渡せ!」

その時、警備員はノイ・ロミーに銃を突き付けていました。「出て行け!」と警備員は叫び、店員に向かっては「ダイ、警察を呼んで」と言いました。

ノイ・ロミーは店から出て、バイクに乗って走り去りました。ナガ市に戻る代わりに、タリサイ市ポブラション地区の入り江の近くにある、お気に入りのカラオケパブに行きました。パブがあるあたりは人の往来がありませんでした。パンデミックの間、飲み屋、特にカラオケパブは営業を停止していました。店は閉鎖されていましたが、インダイ*6・リサは店の中に座っていました。

*6 年下の女性に対する敬称

「ダイ・リサ!」
「まあ、ノイさん、ここにいるのね」
「ダイ、トゥバ(ココヤシの樹液から作られる酒)をコップ一杯、それに1曲歌わせてくれ」とノイ・ロミーはお願いしました。
「あー、ノイさん、問題ないわ。1回だけよね?」
「ダイ・リサ、1回だけだ。どうもありがとう」
「ノイさん、中に入って。トゥバはまだあるので、ちょうどよかったわ」

インダイ・リサはカラオケのスイッチを入れ、マシーンに入れるために5ペソ硬貨を持って来ました。彼女は常連客が歌を選べるように、歌集をノイ・ロミーに手渡しました。

「ダイ・リサ、歌集は必要ないよ」とノイ・ロミーは言いました。「143番をかけてくれ」
「ノイさん、あなたのお気に入りはいまでも同じなのね」とダイ・リサが笑いながら言いました。
インダイ・リサがテーブルに、縁のあたりでまだ泡だっている酒の入ったグラスを置きました。彼女はノイ・ロミーにマイクを渡し、カラオケマシーンに戻って5ペソ硬貨を入れ、143番のボタンを押しました。

ノイ・ロミーはトゥバを一気に飲み干し、空になったコップをテーブルの上に置きました。カラオケが流れ始めたので、マイクを手に取り、立ち上がりました。

そして今終わりが近づき…」、ノイ・ロミーは歌い始めました。「そして最後の幕に向き合っている…」、彼は歌を味わうかのように目を閉じました。

マイ・ウェイの歌は50年前にリリースされていて、1974年にはフランク・シナトラがこれをマディソン・スクエア・ガーデンで歌いました。ノイ・ロミーは「そして最後の幕に向き合っている…」と小声で歌いながら考えていました。本当のところ、彼は寡夫ではありませんでした。この46年間、ミラの居場所を探し続けていました。彼女は1974年、突然、姿を消したのでした。タリサイ市ポブラシィオン地区にあるこのひっそりと引っ込んだ所にあるカラオケパブで今、彼が歌っている歌をフランク・シナトラがマディソン・スクエア・ガーデンで歌ったのと同じ年でした。
…私はすべての道を旅した、そしてもっと、もっとそれ以上に…
突然、カラオケマシーンからの騒音をかき消すぐらいに大きなサイレンの音が響き渡りました。彼は注意を払いませんでした。彼が愛したたった1人のために歌い終えようとしていました。しかし、数台の警察車両が到着し、防弾チョッキを身につけ、ケブラーヘルメットをかぶり、武器をかまえた警察官たちが車から降りてきました。彼らは全員、ノイ・ロミーに照準を合わせていました。左側から右側へと彼らはパブを取り囲み、インダイ・リサは「ノイ・ロミーさん、私を許して…」と言っていました。
インダイ・リサがノイ・ロミーに言いたかったことを言い終わる前に銃声がし、ノイ・ロミーの体と頭を銃弾で穴だらけにしました。
銃弾が彼の身体に穴をあけたとき、歌詞の「私は私の道を生きてきた…」が鳴り響きました。ノイ・ロミーは地面に倒れ、さっき飲んだ酒がこぼれ出たかのように口は泡立っていました。
銃撃後の突然の静寂の中で、警察官の1人が、無線機を取り出し、「ミッション完了」と言いました。


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