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『それでも、人生は美しい』 グエン・ホアン・ジエウ・トゥイー/吉江亜希子 訳

Essay / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(ベトナム)

それでも、人生は美しい

月曜日の朝、通りは静まりかえっていた。仕事場の近くで、バイクに乗った顔馴染みのバインクオン*1屋の店員が猛スピードで通り過ぎていくのを見かけた。なんということか、彼は片手でバイクを運転しながら、もう片方の手でお盆を抱えているではないか。その上には私もときどき食べるセットメニューのバインクオン、つけダレ、そして生野菜の盛られた小皿が乗っていた。週末に政府の政策が発表されてから、ハノイにおける新型コロナウイルスの感染爆発を防ぐため、市場に店を構える飲食店をはじめ、必需品を売る店以外はすべて営業停止を余儀なくされていた。バインクオン屋も対面での営業ができなくなって、近くの家に朝食を届けに行くところだったのだろう。私はひどく気がかりだった。危なっかしい運転で彼が転倒するのでは、ということにではない。小皿の上で風にはためいていた野菜たちが、待ち人の手にわたる前にすべて飛び去ってしまうのではないか、ということに心穏やかではいられなかったのだ。

*1 Banh Cuon 厚みのあるライスペーパーにひき肉、刻んだきくらげ、エシャロットなどを包んだ料理

私は裏口から仕事場へと入った。書店になっている1階の表側は真っ暗で、とても静かだった。鉄格子の隙間から差し込んでくる光が、明るい筋を創り出していてとても美しかった。その様子はちょうど、私たちが出版した川端康成の著書『美しさと哀しみと』のタイトルそのもののようだった。この日、私はいくつかの資料を取りに仕事場に来ていたのだが、同僚のデザイナーたちは、パソコンを持ち帰らなければならなかった。在宅勤務の期間がまた始まっていた。新型コロナウイルスの感染爆発が始まった2020年の春からこの秋までずっと、もう何度も同じような状況が繰り返されていたので、もはやショックを受ける者はいなかった。しかし何より悩ましいのは、新型コロナウイルスの感染拡大地域へ本を届けることが極めて困難になるということだ。ベトナムのように発展途上にある国は、平常時であっても精神の健康にかかわる問題は、依然として重要視されていない。さらに、今のように社会が危機に直面しているときであればなおのこと、文化的、知的ニーズは真っ先に削られてしまう。本は、世界中の多くの国々でその地位を獲得してきたが、ベトナムにおいてはいまだ不可欠なものだとは認識されていないのである。

ここ最近、サイゴン*2から中部の都市や高原地帯へ帰省する出稼ぎ労働者たちの様子が、私の心をとらえて離さなかった。サイゴンはベトナム南部の活気あふれる大都市で、郊外から多くの労働者たちが家計を支えるために押し寄せていた。しかし、今回の新型コロナウイルスの影響で都市は大きな打撃を受け、彼らを抱え込むことができなくなっていた。出稼ぎ労働者たちは生活用品をバイクに積み上げ、群れを成して故郷へ引き返した。大人も子どもも、男も女も、夜はアスファルトの上にござを敷いて外で寝た。生後9日の赤ん坊でさえ、バイクに乗せられ、1,000キロの道のりを故郷へと向かった。ある者たちは徒歩で向かい、またある者は道に横たわったまま、永遠に目を覚まさなかった。

*2 ホーチミン市の旧称

私の住んでいるハノイはまだ恵まれている方だった。それでも郊外から働きに来ている労働者たちの多くが困難な状況に直面している。

私はこれまでずっと、Facebookにはおもに本や言葉、人生についての話題を投稿してきた。しかし、本を読むことそれ自体も私を困惑させ、不安に陥れるようになっていた。圧倒的な現実の中で、無意味で役に立たないものを読んでいるかのように思えたのだ。私は以前のように、本の画像や感想をシェアする気概を失っていた。この時期に本に関する話題を載せるなど、自分が恥知らずで不道徳な人間にすら思えたからだ。

だからといって一体私に何ができるというのだろう。貧しい人たちに食糧を配布できればよいが、私が住んでいるのは感染によって大きな打撃を受けた地域ではなかったし、チャリティーイベントを組んで失業者の支援をしたいとも思ったが、オピニオンリーダーでない私にできることはたかが知れている。友人らと共にわずかな寄付を集めること以外に、できることなど何もないという現実が、私を悩ませ続けた。

感染が拡大している最中に市場に買い物に出掛けたことは、忘れ難い経験になった。バイクを市場の外に停めて、徒歩で中へと入る。バイクを降りても、私は頭に真っ黒な“炊飯器”——長距離用のヘルメット——をフェイスシールド代わりに乗せていた。黒いフェイスシールドに、ショートパンツ、黒いスニーカーといういで立ちだったのは、重い荷物を持たなければならないとわかっていたからで、この日私はできるだけ飾り気のない簡素な格好をしていた。

午後の市場には、いつもなら10軒ほどの店が軒を並べるところに、魚屋が1軒だけ出ていて、その周りを7、8人の客が取り囲んでいた。私は近くに寄って、1匹の大きな鯉を指さし、店の女主人に「これが欲しい」と言った。女主人は私に一瞥もくれず、頷きもせず、声が聞こえているのかさえわからなかった。私はおとなしくその場を退き、少し離れたところで自分の番がくるのを待った。

この時期、魚屋では大きな魚しか仕入れをしないのか、4、5キロほどの鯉と5キロから7キロはあろうかという草魚の2種類しか並んでいなかった。誰もがみな魚を1匹丸ごと買い求め、普段のように切り身や少量で購入する者はいなかった。女主人は1匹の草魚の鱗をガリガリと音を立てて削り取ると、チョッピング専用の湾曲した特殊な包丁を掴んで、震える手で頭と身体を切り離そうとしている。客は急き立てるわけでもなく、値段交渉をするわけでもなく、辛抱強く待っていた。今日1日で開店からどれだけ多くの魚をさばいたのだろうか。彼女が疲れ果てているのは手を見るからに明らかだった。

次の客は鯉を2匹、あわせて9キロも買っていった。私は待ちきれずに、他の買い物をすませることにした。戻ってくるとたらいの中はすっかり空になっていて、ただ魚屋の彼女が石のように身じろぎもせず壁に寄りかかって座っていた。羽音を立てて顔の前を飛び交う蠅を追い払いもせずに、浜辺に打ち上げられた魚のように口を開けてあくびをした。その姿はおかしくもあり、哀れでもあった。商品を売ることができたのに、彼女の様子からはほんの少しの幸せも見出だすことはできなかった。

次はいつ市場に買い出しに来られるかわからない。私はできる限りの買い物をしなければならなかった。多くの荷物を引っ提げて、私の手はだらんと重く垂れさがった。汗はシャワーを浴びたかのように流れ出て、顔を覆っているマスクのせいで窒息しそうになった。

市場の出口に向かって歩いていると、ふと生花が売られているのが目に入った。この時期に花とは。驚きや戸惑いと同時に、何か幸せな感情が湧き上がってくるのを感じた。誰もが食糧だけが「必需品」だと考えていたこの時期に、淡いピンクのバラの花と黄色い菊の花は、口にすることのできない確かな贅沢品として煌めきを放っている。それは慰めのようであり、また、人生には美しいものが必要なのだという、穏やかな意思表示のようにその場所に存在していた。贅沢品とされているこれらのものも、私たちの生活に欠かせない大切な要素なのではないだろうか。

ふと、グイド・オルフィスについて描かれた『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画のことを思い出した。書店を営むユダヤ人の彼は、妻子と共に平凡な毎日を送っていたが、ある日突然、一家はナチスに捕らえられドイツの強制収容所に送られてしまう。収容者の墓やガス室、銃口に囲まれた日々の中で、父親は息子の命を守るために楽観的にふるまおうとする。賢くユーモアあふれる言動で、息子に「ここはご褒美を獲得するためのゲームの中」だと信じさせようとしたのだ。グイドはまた、スピーカーを通して愛する妻のいる女子収容所に思い出のラブソングを届けることに成功する。それが夫の仕業だと知った妻は、目をうるませ、幸せで満たされるのを感じるのだ。その素晴らしくロマンチックで感動的な時間は、音楽が人生に欠くことのできないものであることを教えてくれる。同時に、どのような状況にあっても、生き方を知っていれば、人生は美しいのだということも。

エリック・マリア・レマルクの『愛する時と死する時』という小説で私の心に残っているのは、恐ろしい戦争の情景ではなく、一人の兵士、エアスト・グレーバーが幸せの瞬間を見出だしていくその才能についてだ。第二次世界大戦終盤の激しい戦闘期にも、グレーバーは愛する女性と共にいかに人生を楽しむかを模索した。美味しい食事、強めの酒、仕立ての良い服、1杯のコーヒー、若さと愛の中に。彼は生きて、可能な限り幸せを見つけることで戦争を欺こうとしていたのだ。

愛する女性のために水仙の花束を買ったグレーバーが、爆弾によって破壊された通りを歩く場面がある。戦争の惨禍によって顔に深い苦悶の痕が刻まれた人々から、非難めいた眼差しを一身に浴びた彼は、ある種の恥ずかしさを覚える。これはもしかしたら、本を読んだり本について語ったりすることを恥ずかしいと感じた、あのときの私の感覚に似ているのではないかと思った。しかし、グレーバーは途中で投げ出すことなく自らの意思を貫き通す。私は彼が正しかったことを知った。

ようやく私は、今自分にできる最善のことは、自らの責務を全力でやり遂げることなのだと信じられるようになった。新型コロナウイルスに対して無関心だったわけでは決してない。ただ、自分自身がコロナ禍に圧倒されてしまうことがなかった、というだけだ。私は編集長として担当していた本の成り行きを注意深く見守らなければならなかったし、書きかけの児童書を何としても完成させなければならなかった。本に関するオンライントークショーのコーディネートもしていたし、少し名の通った編集者として、しばしばインタビューや、ちょっとした助言を求められることもあった。依頼を受けるかどうかはいつも一度検討してから返事をしていたが、今はどんな依頼も受けるようにしている。卒業論文を執筆している出版学部の学生からのインタビューや、雑誌のインタビュー、ラジオの出演も引き受けている。

私はもう、写真や本の感想をFacebookに投稿するのをためらわなくなった。本の一編集者として、見識を深めるためには本を読む必要があった。ベトナムにおける読書数の平均は恐ろしいほどに低い。私はライター、発信者として、多くの人に読書愛を分かち合うために本について執筆し発言している。また一人の母親として、私が本を読むことで子どもたちが後に続いてくれたら、という期待もある。そして一人の読者として、読むこと自体を楽しんでいる。ちょうど読み終えたばかりのハン・ガンの『すべての、白いものたちの』という本には、人間が一生のうちに出会う白いものについて書かれている。雪、ライト、白い家、壽衣(じゆい)、海の中のイワシの群れ、息、煙……柔らかくはかなげだが驚くほど鋭く、純潔なものへの深い感覚を呼び覚ましてくれる。私はまた、アリス・マンローの『ジュリエット』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、ジョゼ・マウロ・デヴァスコンセーロスの『ぼくのオレンジの木』、グエン・クアン・ラップの『蟻と鼠と蠅』を読み終えたところだ。

その間、私の夫は荘周の『荘子』、ティム・マーシャルの『恐怖の地政学』を読んでいた。私の上の子どもは『千一夜物語』を、また私と夫は時間のあるときに下の子どもに『アイボリット先生』や『窓際のトットちゃん』を読んで聞かせた。

つい先日開催された、規制当局と出版社、報道機関によるオンライン会議では、各出版社が本を「必需品リスト」の中に加えることを提案した。今この時期に、政府の側から本を必要なものだと認めることは、人々の本に対する認識を変える最も良い方法だと、私は思っている。

昼食にあさがお菜を茹でている。あさがお菜はベトナム人に最も馴染みの深い食べ物だ。私はとても集中していた。茹でるのが難しいわけではないが、茹で方が足りないと緑の艶が失われてしまうし、茹ですぎても柔らかく崩れて美味しくなくなってしまう。気を抜くと思うような出来になってくれないのだ。ベトナムには、あさがお菜ほど人々の生活に浸透し、魅力あふれる野菜は他にない。生のままサラダで食べることもできるし、茹でても、スープにしても、炒めてもいい。他の食材と一緒に料理をすると、例えば、骨や肉、魚、蟹、エビ、牡蠣やルーム貝などと組み合わせて1,000通りもの料理方法がある。鶏鍋や牛鍋、アヒル鍋にしても食べられる。さらに、あさがお菜は乾燥した土壌でも水の中でも生息でき、冬も夏も季節を問わず生え、密集して育つため、ものすごい勢いで広がる。あさがお菜はベトナムの詩や民謡に、最も多く登場する野菜でもあるのだ。

強い生命力、あらゆる状況における柔軟性、豊かな情愛の精神、共同体意識。まさに今ほど、あさがお菜がベトナムの人々に重なって見えたことはない。感染地域の画像を見れば、いたるところであさがお菜の束が人の手から手にわたり、それぞれの家の前に置かれ、必要な人が持っていけるようにと、チャリティーカーの上やアパートのロビーに並べられている。その様子を見て私は思うのだ。ベトナムはきっと大丈夫だろう、と。

2021年8月、ハノイ