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「僕らには自国民の愚かさを笑い飛ばす権利がある」―エカ・クルニアワン×太田りべか

Interview / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インドネシア)

ラカ・イブラヒム(以下、ラカ):『Cantik Itu Luka(美は傷)』を書いたとき、どんなインドネシアを世界に向かって語りたいと思ったのですか?

エカ・クルニアワン(以下、エカ):この小説では、インドネシアについて広く語りたいと思ったんです。わかるだろうけど、はじめての小説だったし、まだ結構若かったし、ものすごく野心に溢れていたからね。その後に書いた本では、もっとおのれを知り、歳も自覚しているはずだけど!(笑)インドネシアを語る小説を書きたいという衝動があったんです。サルマン・ラシュディが『真夜中の子供たち』でインドを語り、ギュンター・グラスが『ブリキの太鼓』でドイツを語ったように。

書籍『美は傷』の表紙の写真
Cantik Itu Luka: © Eka Kurniawan

プラムディヤ・アナンタ・トゥール*1の影響も大きかったと思います。たとえば時代設定では、僕は植民地時代からオルデ・バル(新秩序)時代の終わりごろまでを時代背景として選んだ。一方、ブル島四部作を書いたとき、プラムディヤは民族自立運動覚醒の時代から日本による占領の少し前までを時代背景としました。卒論でプラムディヤについて書いたこともあって、たぶんプラムディヤを「負かしてやる」という野望に燃えていたんでしょう。プラムディヤがインドネシアが国家となる直前で筆を置いたのなら、僕はその後に起きたことについて書いてやろうと思ったんです。インドネシアがどうやって子宮に宿り、生まれ、育っていったか。

*1 プラムディヤ・アナンタ・トゥール(Pramoedya Ananta Toer)(1925~2006)は、インドネシアのもっとも高名な作家。スハルト政権のオルデ・バル(新秩序)時代に、左翼思想のために政治犯として強制収容所に収容された。代表作「ブル島4部作」は、その流刑期間中に執筆された。

ましてや、あの小説を書いたのは2000年から2002年にかけてだった。レフォルマシ(改革)*2からわずか2年から4年しか経っていません。ジョグジャカルタで6年間大学に通いましたが、そのうちの2年はレフォルマシに至る民主化運動の波の中でめちゃくちゃでした。そういった局面は、作家としても人間としても、僕に大きな影響を与えました。

*2 レフォルマシ(Reformasi)は、1998年5月21日にスハルト大統領の独裁政権が終焉したのちの民主化運動の時代を指す。

インドネシアについての小説を書きたいと思いついたとき、そんな時代に育った世代としての僕の一番の疑問は、いったいなぜわれわれはスハルトのような人物を生み出してしまったのだろう、ということでした。まあ、『美は傷』の中ではスハルトの名前をあからさまに出してはいないけど、その疑問こそが、あの小説を書いている間ずっと僕を突き動かしていたのです。僕が言いたかったのは、この国は暴力に満ちているということです。誕生して以来、この国は確かにひとつの暴力から別の暴力へと引きずられてきた。

ラカ:通底するものとして、あえて暴力を選んだのはなぜですか?

エカ:スハルトについて、僕がまず連想するのは暴力です。スハルトはインドネシアの軍隊文化の子宮から生まれました。一方で、よく言われるのは、インドネシアの軍隊は民衆から生まれたということです。歴史的に見て、その通りだとも言えます。独立闘争の時代から、反乱を起こした民衆は大半が普通の人々で、それが武器を持って立ち上がったのです。その後、一部は盗賊になったけれど、大部分は組織化されて軍隊になった。

そういった背景が、1940年代と1950年代には深刻な問題を引き起こしました。当時のインドネシア副大統領のモハンマド・ハッタは、軍の上層部の大部分を首にしなければならなかった。でも、その後も同じ問題が繰り返されました。心理的に、インドネシアの軍は、自分たちが民衆から生まれ、民衆のために多大な貢献をしていると確信し続けることでしょう。だから彼らがインドネシアの政治に関わってくるのは当然なのです。

『美は傷』を書いていたとき、不安を感じていたんです。どうしてインドネシアが誕生してからスハルトに至るまで、われわれは同じパターンの暴力が繰り返されるのを目にし続けてきたのだろう?独立してから数十年もの間、われわれはそんなふうに生きてきた。この後も、また同じことになるのだろうか?どうしてわれわれは、平和で新しい夢のある代替案を提示できないのだろう?

たとえ僕の考えたことが世界を変えることはなくても、少なくともこれらの問いはほかの人の考え方を変えることができるのではないかという気がします。

ラカ:りべかさん、初めて『美は傷』を読んだとき、どう思いましたか?

太田りべか(以下、太田):本屋でこの本を見つけたんですが、そのときはまだ初版で、2002年ぐらいのことです。実は表紙が気に入ったので、なんの気なしに買ったんです。でも読み始めて、びっくりしました。ええ?インドネシアにこんな小説があるなんて、と。

それまでは、プラムディヤやNh.ディニのような前の世代の作家の作品を読んでいたんですが、それらには似ている点がありました。深刻な印象で、どちらかというと陰鬱で、苦悩や困難や貧困について多く語っている。とても暗い。ところが『美は傷』は、重い内容でも、新しい視点から語っていました。

ラカ:『美は傷』は、なにが違うんでしょうか?

太田:たぶん語り方だと思います。この小説の主人公デウィ・アユは、日本軍によって無理やり娼婦にさせられた女性です。エカさんによるデウィ・アユの描き方は、たとえばプラムディヤの『日本軍に棄てられた少女たち——インドネシアの慰安婦悲話』(コモンズ、2004年、原題:Perawan Remaja dalam Cengkeraman Militer)とは大きく異なります。

プラムディヤの書き方は、より証言に近いものです。もちろん証言は重要で意義深いものですが、エカさんの作品がユニークなのは、一歩引いたところからものごとを見ている点です。外側からの視野でものごとを捉えて、悲劇的な出来事をいったん消化し、それを新たな形にして吐き出しているように思えます。その語り方にとても興味を惹かれました。

ラカ:それで、この小説を翻訳しようと思いついたわけですね……

太田:そうです。その時点では、まったくの私個人の思いつきでした。出版社の当てもまだありませんでしたから!(笑)

3か月ほどかけて訳出し、その後、出版社が見つかってから手直ししました。はじめのうちはエカ・クルニアワンさんと連絡を取る手段はありませんでした。出版社が決まってから、やっと連絡を取り合えるようになって、私はいろいろなことを尋ねました。よくわからないことがとてもたくさんあったんです!当時はすでにインターネットはあったけれど、今ほど充実していなかったので。それから1年ほどで翻訳ができあがりました。

日本語訳『美は傷』の表紙の写真
『美は傷』©新風舎

ラカ:『美は傷』を翻訳していたとき、どんなことが難しかったですか?

太田:普通、外国語で書かれた小説を日本語に翻訳するとき、特殊な用語や文化的なことについて説明するために後注をつけることが多いです。プラムディヤの作品にも後注がたくさんつけられています。

この小説を訳したとき、ちょっと違うふうにしたいと思いました。この本は、インドネシアのことをなにも知らない人にもできるだけたくさん楽しんでもらいたい、だから注をたくさんつけるようにはしたくないと思ったんです。でも、どうしても訳すのが難しい言葉もあります。たとえば「ベチャ」という言葉も、インドネシアに行ったことのない人にはなんのことかわかりません。

日本にも似たような乗り物があって、輪タクというんですが、この日本版「ベチャ」は前から引くもので、インドネシアのベチャのように後ろから押すものではありません。日本の読者にも想像がつくように、訳語には「輪タク」を使って、「ベチャ」と読み仮名をふりました。そうすれば読者には、それが輪タクと似ているけれど、まったく同じものではないということがわかります。

きちんと理解できなかった言葉もいくつかありました。「同じ道を、同じ心で」というスローガンの背景について理解できたのは、翻訳の初版が出た後でした。後になって、その言葉を初めて使った元の詩をやっと見つけたのです。改訳したときには、それを日本語訳に反映させて少し言葉を変えました。

ラカ:エカさんは、『美は傷』に書いたことがインドネシア以外の読者にわかりづらいかも、と心配になったりしましたか?

エカ:いや、それはなかったな。実は、はじめからこれを読むのはインドネシア人だという前提で書いていたから。だからインドネシアならではのジョークや批判もたくさん入れています。同時に、たとえインドネシア人であっても、いくつかのネタは見落としてしまうんじゃないかな。

半端じゃないほど特殊なネタもあって——例えばこの小説の舞台となっている町ハリムンダは、独立記念日を8月17日ではなく、9月23日として祝います。僕の友人でこのジョークを理解したのはひとりだけでしたが、何千人もの読者がどうしてだろうと困惑したとしても構わないんじゃないかな!(笑)

そのほかにも、歴史上のネタをいくつか仕込んであります。歴史上の実在の人物から発想を得て書いた登場人物もいて、その人物の人生の軌跡も史実をそのまま使っています。たとえばサリム同志はムソからヒントを得て創作した人物ですが、ムソはマディウン事件の武装蜂起の指導者で、風呂場で素っ裸で死んだと伝えられています。それから小団長は郷土防衛義勇軍(PETA)*3の兵士だったスプリヤディから発想を得て創作した人物で、スカルノはスプリヤディを大司令官に任命しようと目論んでいたと言われていますが、結局スディルマンが任命されました。

*3 郷士防衛義勇軍(PETA)は、日本による占領時代に日本政府が組織したインドネシアの軍事組織。PETA出身者が後にインドネシア国軍の中核を担った。

この手の「~だったそうな」的な話は、おおいに利用しましたね。そういう人物たちの生き様を茶化すように、ゴシップ風に表現しました。そういう一面はどんな歴史の本にも載っていません。どちらかというと地元に残る伝説やゴシップや、歴史書の脚注に書かれているようなことを利用したんです。

海外の読者には、そういうネタはわかりづらいでしょう。インドネシア関係の研究者で、この国の歴史の内外に通暁している人以外は。

ラカ:この本の「証言」とは違う語り方は、日本の人々にとってより受け入れやすいと思いますか?

太田:私はそう思います。この本には、たくさんのおとぎ話や民話や神話や伝説が混ぜこぜに詰め込まれています。とても豊穣な語り口で。同じ背景を共有していなくても、読者はそれをそっくりそのままひとつの物語として受け入れることができます。十二分に楽しめるはずです。

エカ:でも、そういう語り方のせいで、僕はかえって問題に直面しましたよ。ある先輩作家と会ったとき——名前は伏せておくけど!(笑)——『美は傷』のことで、面と向かって苦言を呈されたんです。その人が言うには、その人にとっては非常に神聖な1965年の悲劇*4について、僕はあまりにも冷淡に、おまけにひどく諧謔的に語っているって。

*4 1965年の悲劇は、1965年から1966年にかけて起きたインドネシア国内の混乱と大虐殺を指す。一般市民と政治家によって共産党員またはその協力者とみなされた人々が大量に逮捕され、虐殺された。犠牲者は50万人から100万人以上にのぼると言われている。

だけど、僕だって強い思い入れは持っているんです。それでもあの事件に対しては距離を置いて見ている。僕からすれば、この国の国民は傷だらけです。でも、僕もその傷ついた国民の一部です。そしてその傷をガリガリ引っ掻いて、むしろあの時代の自分たちの愚かさを笑い飛ばしてみたいと思っている。例の先輩作家から見れば、僕のやり方には共感のかけらもないと思ったんでしょう。僕はそうは思わない。われわれには、自分たちのことをさまざまな方法で見る権利があるはずです。

太田:今、インドネシアの新しい世代の作家たちの多くが歴史を新たな方法で語り始めています。エカさんのように、歴史を一歩引いたところから眺めて。当事者あるいは歴史の証人としての視点から書かれた「証言」風の小説とは異なっています。

たとえばフェリックス・K・ネシの小説『Orang-orang Oetimu(オエティムの人々)』は、暴力の歴史を多く取り上げていますが、証言としては書かれていません。そうではなく、その歴史を消化して、別の形のものとして書いているのです。そこには異なる視界があります。たくさんの暴力が起きていますが、それはすでに現実の日常の一部になっています。

エカ:たぶん前の世代の作家たちの中にも、そういうことに気づいていた人もいたかもしれないけれど、例外的だったんですね。たとえばイドルスは武力革命の時代を陰鬱なトーンではなく、ちょっとユーモラスに語っています。プラムディヤも『Perburuan(狩猟)』という小説の中に皮肉を入れてみたことがあります。植民地支配から独立したばかりのインドネシアを風刺したのです。プラムディヤはこう書いています。「これが独立なのか?互いに殺し合い、互いに狩り合うことが?」

でもプラムディヤのトーンは、やはり陰鬱です。物思いに沈んでいる感じです。今の世代は違うはずです。たとえば僕が『狩猟』を書いたとすれば、そういう葛藤はもっと皮肉っぽく書くでしょう。もっと痛烈に嘲るでしょう。

オンライン対談の様子の写真

ラカ:『美は傷』を書いた後も、「インドネシア」をひとつの作品の中で表現したいという同じような欲求がまだありますか?

エカ:そういう欲求は常にありますが、細かいところは変化していくかもしれません。今はもっと小さくて特定のインドネシアを記録したくて。たぶん、もっとリアリスティックに!(笑)

『美は傷』はカーニバルやお祭りみたいなものとして想像すればいいと思うんです。出し物や見世物がすごくたくさんある。一方、その後に書いた小説は、もっと小さくて親密な舞台といったところです。

Seperti Dendam, Rindu Harus Dibayar Tuntas(怨恨のごとく、恋慕も完済すべし)』と『O(オー)』を書いたときは、80年代と90年代のインドネシアのポピュラー文化を前面に出そうとしていました。シラット(拳法)小説から80年代の映画や恋愛小説まで、当時地下で密かに流行していたポルノ小説を読んだ経験も含めて。

『美は傷』では、実は教科書に載っているような歴史を再現しただけなんです。どちらかというとメインストリームというか。違う視点から書くようにはしたけれど。でもその後の小説では、そこから外れています。インドネシアの別の側面を見てみたかったんです。

ラカ:インドネシアの小説は、海外の読者を惹きつけるためにはインドネシア「らしさ」を表現しなければならないと思いますか?

エカ:そうは思いませんね。僕が日本の作家の小説を読むのは、必ずしも日本という国についてもっと知りたいからというわけではありません。ただどんな話なのか知りたいから読むんです。

来年、ブディ・ダルマの短編集『Orang-orang Bloomington(ブルーミントンの人々)』の英訳がペンギン・クラシックスから出版されます。その中にはインドネシアなんてない!(笑)背景はアメリカ合衆国だし、登場人物もそこの人です。クリス(短剣)もダンドゥットもなければ、ましてやバティックなんてありません。そこからインドネシアについて学ぶことはできないけれど、その中の短編はどれも、だれもが楽しむことができます。

太田:日本の今の小説でも同じことが言えますね。たとえば村上春樹の作品は、日本についてそれほど語っていません。せいぜい登場人物の名前が日本人の名前だというぐらいです。登場人物の名前をたとえばジョンやエカに替えても、同じ物語になるでしょう。村上春樹は自分の小説の中に日本を表現すべきだとは思っていないでしょう。肝心なのは、作者が表現したいと思う物語そのもののリアリティがあることです。それがあれば、どこの読者にも受け入れられます。

エカ:「インドネシア」について書かなければならないという考え方は、かえって大きな障害になっていると思います。その考え方は「絵葉書風」に陥る可能性がある。海外に売り出すために自身をエキゾチック化するのです。オランダ人植民者たちがオランダ領東インドを世界に披露するために、宮廷の舞踊や文化を使ったのとたいして変わりません。確かにそれもインドネシアではあるけれど、故意にエキゾチック化されています。

インドネシアの芸術は、ボロブドゥールやプランバナンやクリスやバティックだけではありません。インドネシアに関するあらゆる物事が、われわれのアイデンティティの一部となるのです。“Aku lapar!”(腹へった!)という落書きだってインドネシアです。そういう抗議の声や、社会政治的文脈はとてもインドネシア的です。たとえば日本には、そういうのはきっと見つからないでしょう。

太田:それに、実のところ、今のインドネシアと日本には共通点も多いですよね。若い世代の人たちは、どちらの国でも小さいころにたぶん『ドラえもん』を見たり、任天堂のゲームで遊んだりしているでしょう。若者の考え方は、インドネシアでも日本でもそれほど違わないと思います。違うのはたぶん宗教に関することぐらいでしょう。宗教はインドネシアの若者にとっては今も大きな意味を持っていますから。でも日常生活では、そんなに違いはないと思います。

エカ:20世紀以降の日本の作家たち、少なくとも村上春樹世代とそれ以降の作家たちのものの見方や言葉の使い方は、インドネシアの作家たちと似ています。まあ、われわれはひどくグローバル化した世界に生きているのだから、仕方がありませんね。読むものも似たようなものだし、関心を持つことも似ている可能性がとても高い。違うのは、おそらくとても個別的で地方特有の問題くらいでしょう。

太田:近ごろの日本の作家たちも、「日本」をひとつの国家として、あるいはアイデンティティとして語ることは滅多にないようです。むしろ個人的な語りを取り上げていることが多いです。個人的な問題や、身の周りの小さな世界のことを。

ラカ:インドネシアの作家のどんな作品が、日本語に翻訳するにふさわしいと思いますか?逆に、日本の作家のどんな作品が、インドネシア語に翻訳するにふさわしいと思いますか?

太田:私はアズハリ・アイユブの小説『Kura-kura Berjanggut(あごひげの亀)』と、フェリックス・K・ネシの『Orang-orang Oetimu(オエティムの人々)』と、インタン・パラマディタの『Gentayangan(彷徨)』がとても好きです。そのどれもが翻訳されるべきだと思います。エカさんの作品の中では、まず『O(オー)』が翻訳されることを願っています。

エカ:僕が今関心を持っている日本の作家が3人います。川上未映子と柳美里と多和田葉子です。とりわけ柳美里は、バックグラウンドが興味深いです。彼女は日本で生まれて、日本語を母語として日本語で書いています。でも国籍は韓国で、親は韓国出身です。ユニークなバックグラウンドですね。

川上未映子は、女性の世界と、男の僕はまったく知らなかった女性特有の問題を取り上げています。生理や豊胸手術や、そういった独特の問題です。一方、多和田葉子の小説は、おとぎ話のようだと思います。

多和田葉子の小説のひとつに、犬と結婚する女性の話があります。それを読んだとき、「わあ、これサンクリアン伝説とそっくりじゃないか!」と思ったんです。実際、この小説の語り手は、その話は東南アジアの民話だと言っています。びっくりしましたね。ほんとにサンクリアンだったんだ!ってね。(笑)

太田:今のところ、アメリカ合衆国やヨーロッパの作家の作品なら、よりかんたんに日本の出版社や読者に受け入れられているようです。いったんアメリカで人気が出れば、必ずすぐに翻訳されます。でもインドネシアの作品は、研究者や大学関係者に頼りすぎていると思います。それでは読者層が広がらないし、本もあまり売れません。

でもいったんインドネシアの作品を知ってもらえれば、きっと売れるようになるはずです。何十年か前にラテンアメリカ文学がブームになるまで、日本人がラテンアメリカのことを必ずしもよく知っていたとは言えません。それでも、ラテンアメリカ文学は大歓迎されました。インドネシア文学もそうなるかもしれません。ただ勇気があって突破口を作り出せる出版社が必要なだけです。


インドネシア語からの翻訳:太田りべか