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人とつながりながら、ジャワから世界を踊る――エコ・スプリヤントインタビュー

Interview / Asia Hundreds

ジャワ的アイデンティティと世界

――あなたはジャワ育ちですが、カリマンタンで生まれたのですよね。

エコ:はい、南カリマンタンのバンジャルマシンで生まれました。父は、東カリマンタン出身のダヤク(ボルネオ島のプロト・マレー人系先住民)です。高校に入るためにジャワに来て、マゲラン(中部ジャワの町)出身の母と出会い、恋仲になりました。父は母を連れてカリマンタンに戻ったのですが、父の家族はジャワ人との結婚を認めませんでした。それで、私が5歳の時にマゲランに移り住んだのです。父はそこで婿養子になって義理の父を本当の父と慕い、自分をダヤクだとは思っていませんでした。

――それで、あなたはマゲランで育ち、踊りを習い始めるわけですね。あなたの踊りはとてもジャワ的だと思うのですが、あなたは早い時期からジャワ伝統舞踊の大家、バゴン・クスディアルジョやスプラプト・スルヨダルモに学んでいますね。ふたりとも、伝統舞踊を新たな視点から見直す革新的な運動を始めた舞踊家として知られています。まだ若い時に、どうしてそのような新たな方向に関心を持ったのですか?

エコ:母方の祖父が、男の子はプンチャック・シラット(伝統武術)ができないといけないという伝統的な考えの持ち主だったので、5歳頃から叔父にプンチャック・シラットを仕込まれました。また、マゲランはいろいろな民族舞踊で知られる土地で、私は5歳頃から5~6年間、祖父から民族舞踊を仕込まれ、おかげで、マゲランの民族舞踊のコミュニティのなかにいました。高校に入るとジョクジャカルタのバゴンに紹介され、マゲランとジョクジャカルタを行ったり来たりしました。STSI(現ISI)に入る前からそうした環境に恵まれ、非常に幸運だったと思います。1990年にソロのSTSIに入学して間もなく、スプラプトの公演を見ました。それは宿命的とも言える出会いでした。いったい何が起こったのか知りたくて彼にアプローチし、「あなたのもとで勉強させてもらえませんか?」と頼み込みました。彼が行くところにはどこでもくっついて行き、学ぼうとしました。

アジアハンドレッズのインタビュー中のエコ氏と畠氏の写真1
写真:山本尚明

――それから、あなたはサルドノ・クスモ*4 に出会うのですよね。インドネシアのコンテンポラリー・ダンスの先駆的存在である彼もまた、70年代からバリや東カリマンタンで、リサーチや現地の人たちとの協働作業を通して作品を発表してきました。あなたのジャイロロとの関係は、彼の仕事を強く思い起こさせます。

*4 ジャワ出身のダンサー・コレオグラファー。ジャワの古典舞踊を背景に現代を鋭く洞察する姿勢が注目を集め、70年代から 世界に広く知られる。特に、エコロジーの問題に大きな関心を寄せ、バリ島のタガス村で『ディラ村の魔女 Dongeng Dari Dirah』(1974年初演。92年にサルドノ自身によって映画化)、東カリマンタンでの熱帯雨林の破壊を告発した『メタ・エコロジーMeta Ekologi』(1979年初演)や『プラスチック・ジャングルHutanPlastik』 (1983年初演)など、現地リサーチと協働作業からいくつもの重要な作品を発表した。現在も、IKJ(InstitutKesenianJakarta、ジャカルタ芸術大学)とISI各校で教鞭を執るほか、インドネシアの芸術文化を代表するひとりとして影響を与え続けている。

エコ:サルドノは最も尊敬し、刺激を受けた、師でありコレオグラファーです。彼に出会ったのは1993年です。私は年代的にバリや東カリマンタンの作品は実際には見ていませんが、いろいろなもので読んだり、彼から直接聞いたりし、『ディラ村の魔女』は映画で見ました。95年には、STSIの学生でありながら、彼の『Passage through the Gong』のウィーンと香港公演にダンサーとして参加しました。サルドノは『Cry Jailolo』のジャカルタ公演を見て、こう言ってくれました。「君がやっていることはまさに、私がかつてやったことだ。だけど違うのは、君は他の文化に飛び込んでいる、まさにダイビングのように。私はバリでは、バリをリサーチするジャワ人だったよ。」私は『Cry Jailolo』をサルドノを真似て始めたわけではありませんが、この言葉は、彼がいかに深いところで私の芸術的な思考に影響を与えていたかを実感させました。偶然にもサルドノと同じ道を歩んでいますが、そのことを私は幸せに思います。

――STSIの後、UCLAに留学しますね。おそらくそこで世界中のいろいろなダンサーと出会ったことと思いますが、そのことは、あなたのものの見方、考え方、あるいはコレオグラフィーに影響を与えましたか?

エコ:もちろんです。UCLAの前に、1997年に「アメリカン・ダンス・フェスティバル」に招かれ、そこで、踊りはジャワ舞踊だけではないということに目を開かされました。ダンスだけでなく、芸術ということについての私の概念を開いてくれる、すばらしい体験でした。UCLAももちろんそうです。ヴィクトリア・マークス、ジュディ・ミトマをはじめ、たくさんの人に出会い、感謝しています。ピーター・セラーズも、オペラの仕事を通してダンスの別の側面を私に教えてくれました。

学びになったという意味では、マドンナだってそうです。ダンサーとして参加した彼女のツアーは非常にプロフェッショナルで統制がとれており、アカデミックとは別の世界を私に教えてくれました。インドネシア舞踊の授業も持たされ、そのことは私に、インドネシアは大きくて、私が知っているのはそのなかのジャワ島に過ぎない、ダンスの世界は大きくて複雑なんだということを自覚させてくれました。同時に、自分がジャワから来たということ、そして、父を含めてジャワで私に教えてくれた師たちに大きな感謝の念を覚えました。

ダンスを披露するエコ氏の写真
Photo: Pandji VascoDagama

――あなたはさきほど名前の出たピーター・セラーズや、レミ・ポニファシオなどとも協働作業を経験しています。あなたはジャワという強固な伝統を背に、世界をも見ることになったわけですが、このような協働作業のなかで、普遍主義と個別主義―あなたの場合で言えば“ジャワ的なるもの”―についてどのように折り合いをつけているのでしょうか?

エコ:ピーター・セラーズとの作業は、彼が演出ではありましたが、コレオグラファーである私の上に立つということもなく、ヒエラルキーを感じさせないスマートなものでした。一方、レミ・ポニファシオは、私を完全にダンサーとして扱い、私はまるで軍隊のように身体を酷使しなければなりませんでした(笑)。しかし、両方とも、たくさん議論して、私の目を開かせてくれたものであったことは間違いありません。ジャワということを意識した好例は、さきほど挙げたアルコ・レンツとの協働作業『solid.states』です。これは、メラニー・レーンという女性ダンサーと私が演じる、ジャワ文化に対する安定性と不安定性についての作品です。メラニーは母がジャワ人、父がオーストラリア人で、彼女自身はオーストラリア育ちのためジャワ文化をよく知りません。

一方、私はジャワ育ちですが、海外に頻繁に行っているので、もはやジャワ人じゃないと言われることもあります。アルコはネゴシエーターとして「あなたは何者なのか」という問いをメラニーと私に投げ、それに答えることで私たちは自分を発見していきます。アルコとは喧嘩もしました。「そんなことはできないよ、ジャワではそんなことはしない」と私が言えば、アルコは「でも、君は米国ではマドンナのダンサーもやったし、『ライオン・キング』のダンス・コンサルタントもやったじゃないか」と反論する。それで、「ならば、ジャワに行ってきたら」と応じると、彼は本当にジャワに行き、私の師匠の下で3カ月間、ジャワ舞踊を学んできました。私の故郷であるマゲランにも行って、私がそうしたと同じように叔父からプンチャク・シラットを習い、私の家族の話も聞いてきました。戻ってきて、「エコ、君の叔父さんはこんなことを言っていたよ」などと話してくれ、それが私に過去の記憶を呼び起こすこともありました。このようなプロセスが1年ほどありました。互いにいかに平等であるかが問題なのでなく、別の自分を見つけるよう導いてくれる誰かがいたことが重要だったのだと思います。