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ファリッシュ・ヌール――境界から見える今日の東南アジア:人々の暮らしから将来のASEAN統合を考える

Presentation / Asia Hundreds

国家と国民の間で―ASEANは東南アジア市民にとって、どの程度近しい/遠い存在か?

1967年、東南アジア諸国連合(ASEAN)は、設立しました。以来、この地域グループは独自の軌道に沿って進化・発展を遂げ、極めて多くの事を達成してきました。まず第一に、ASEANの最も顕著な業績は、半世紀もの間、東南アジアの国家間での戦争を何とか回避していることであり、この点に注目すべきでしょう。地域全体としての安全保障と安定のおかげで、1980年代の世界的な景気後退のあと、東南アジアは日本、韓国、そして他の東アジア諸国からの海外直接投資(FDI)によって巨大な利益を獲得しました。その結果、1998年の世界的な財政危機まで常に発展し続けた、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイという、いわゆる「アジアの虎」経済を生み出しました*7

*7 ビルマ/ミャンマーは1997年、ラオスとベトナムに次いでASEAN加盟国となった。当時、同国はUNDPの人間開発指数において0.524というランクを付与され、地域において最下位だった。2014年、最後の加盟国として、ビルマ/ミャンマーはついにASEANインフラ基金に加盟した。

しかし、ここで私たちはASEANの性質を理解し、それが何なのか、または何でないのかを認識するべきです。1967年にASEANが創設されたとき、東南アジアのすべての地域は冷戦という敵対的紛争に束縛されていました。ASEANを創設した5カ国は、自分たちの国がその対立に巻き込まれないようにすることに関心があり、だからこそ中立性と不干渉原則が当時も、そして今日においてもASEANの重要な基本的概念となっているのです。これは驚くことではありません。

当初からASEANとは、東南アジアにおける政府間の、実用主義的かつ現実主義的な協調でした。そういうものとして、ASEANは常に政府レベルにおける合意と協力に基づいて機能してきました。ASEANは、地域の共同体間にある、共通した地域的感覚の有機的な産物として、「ボトムアップ」から始まったわけではないのです。そのため、私たちは、あたかも東南アジアの草の根社会に由来する大衆的/ポピュリズム的なイニシアティブであるものとして、ASEANに望みをかけることはできませんし、そうするべきでもありません。多国間の地域グループとして、最初からASEANは加盟国それぞれの政府の関心事であり、国家の外交政策の領域内にあると理解されていました。しかし、東南アジアの多くの国家が今日直面する課題は、二つの事に同時に対応できる国民の物語[national narratives]を構築することです。つまり一方では、民族-文化-言語-宗教の範囲に及ぶ諸アイデンティティをそれらが十分に代表[representation]された状態で、国民の物語になんとか組み込むことのできる包容力の大きいテンプレートを提供し、そしてもう一方では、それぞれの国民国家を、より広い文脈における地域の歴史に位置づけることを求めています。ASEAN地域の多くの国々では、国家的なレベルにおける完全な代表性を求めて奮闘する多くの民族-宗教-言語共同体が、今でも存在しています。

単一のASEANと、「様々な東南アジア」の間で

ここで私たちは、ASEANと東南アジアの間には、極めて実際的な差異があること、そしてその違いが、単に名目上のものでないことを理解する必要があります。

特筆すべきなのは、ASEANが常に、東南アジアにおける国家と政府の間の取り決めであったという点です。近代国家は何かを為し、特定の任務を果たすために利用される道具でもありますが、そもそも意図されていなかった事をするには全く不適当であります。車が飛んだり、飛行機が海を航行することを誰もが期待していないのと同様に、国家はその本来の目的に関連した範囲のことをするために利用される道具なのです。国家、そして政策立案者とテクノクラートの力が及ぶ範囲は、近代的統治の各パラメーターによって規定されます。国家が経済や教育政策を整備、管理し、国境の安全を保障し、保護する等々がそれに該当します。しかし、国家は市民や共同体のマイクロヒストリー[micro history]やマイクロバイオグラフィー[micro biography]の管理には介入していないし、するべきではないのです。

現地を歩く政治分析学者・東南アジア歴史学者として、私はしばしば、東南アジアにおける近代国家や政府の支配が行き届いていない現場で活動してきました。私が何千もの東南アジア人の、特に今日のASEANの国境沿いに住む人々の暮らしの現実を直に目の当たりにしてきた場所は、国家の管理を超えたところに存在している、人々が有機的で自然の法則にしたがって生活している場でした。これらの出会いから見出すことのできる重要な所見は、以下のとおりです。

    • 第一に、東南アジアの国境は実に透過性を帯びており、国境を閉鎖し、警備する試みがあるにも関わらず、東南アジアの多くの地域において、越境移動はありふれた日常的現実であること。
    • 第二に、これらの国境地帯に居住する人々は、国の他の地域に住んでいる同胞市民よりも、国境を挟んだ隣人に対してより親近感を抱いていること。
    • 第三に、国境地帯の共同体には、排他的で非友好的なナショナリストの傾向があまり見受けられないこと。いわゆる外国の他者は、彼らの目前に立ち、商売や交流、結婚相手になり得る、文字通りの「お隣さん」である。このような単純な理由から、国境地帯で生活する人々にとって、狭義のナショナリストの言説はほとんど意味がなく、容認されないものなのである。
    • 第四に、おそらくこれが最も重要な点だが、以上挙げた事象は現場レベルの、交易、定住、移住、そして結婚といった社会経済的な現実に根差したものであるということ。そもそもこれが理由で、上述した現実が、それによって生活を形作られている人々にとっても、また意味を持つのである。

的外れな学術研究

政策立案者とテクノクラートが一方にあり、現場で生きる人々がもう一方にある両者の考え方の溝は、今日の学術界と研究活動にも現れています。これは特定の学問領域が発展した結果であるサイロ思考の不運な帰結で、学術環境における多様な学問領域間の連携不足を招いています。
このサイロ思考の最終的な結末として、以下のような研究が生まれてしまうと考えます。つまり、研究活動とその研究成果では説明できない盲点が残されたままの、ある種テーマとして特定的かつ限られた範囲の研究です。例えば、政治経済学者はしばしば、ASEAN各国、あるいはASEAN全体の政治経済の問題について研究を行います。しかしながら、これでは、他形態の経済生活や、時として実際には金銭的でない(例えば文化資本のような)別の形態の資本をとる相互作用を伴う慣習を、考慮し損ねてしまいます。同じように、安全保障のアナリストは国境問題と国家安全保障に関わる事柄について研究していますが、様々な形態の移動や越境的な相互作用が生じていて、それが草の根レベルで争いを防止・調停する解決の糸口になるかもしれないということを認識し損ねているのです。このように事例は続いていきますが、これらは東南アジアがまさに、私たちが認識しているよりもずっと複雑であるという事実に加えて、実際には、「たくさんの東南アジア」が存在するということを気づかせてくれます。

今日の東南アジアの地図を見て、多くの異なる合法的・違法的、規則的・不規則的なものを含む移動、接触、交易のネットワークを辿ると、K.N.チョードリーが書いた多核的世界は、東南アジア地域においては今でも生きた現実であるということがわかります。ですから、これらの多様な現実を、悪しきものとして描き、それらを取り締まる代わりに、理解しようではありませんか。そして、この世界の一部に容易く存在している、多様で混成的な東南アジアのメンタルマップ[認知地図]を作成しようではありませんか。

現在、私たちが直面している難局からのひとつの脱出法は、いま東南アジア地域に存在する、多種多様なその土地ごとの生活世界の包括的な姿を提供してくれるであろう地理学、歴史学、人文社会科学における研究成果をもっと真剣に受け止めることです。ここで言う生活世界とは、高地共同体のメンタルマップから、バジャウ・ラウト人、イラヌン人、スールー人のような海の放浪者が抱く海景に至るものまでを指します。そうした時にのみ、私たちは確固たる国家の政治上の地理を移動可能かつ動的で流動的な現場における共同体の地理と比較することができ、公けの国家中心的な言説がいかに、そしてなぜ、特定の環境にある人々にとってはほとんど関連性がないのかという点もまた説明し得るのです。これがなされない限り、私たちのASEANへの公的な理解は、ひとつの公的な物語だけを伝える国家中心的なものであり続けてしまいます。同時に、東南アジアという複合的な地域の至る所で実際に存在する、多種多様な生活世界の物語を忘れ、無視することを招いてしまいます。