「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
実験音楽センター、DomDomの設立
―すでに国際的な作曲家としてヨーロッパで多くの作品が演奏されているチャン・キム・ゴックさんですが、2012年にハノイに「DomDom」を創設され、ディレクターを務めていらっしゃいます。ご自身の創作とは別の活動を始められたわけですね。
チャン・キム・ゴック(以下チャン):はい。作曲家とディレクターは実際別の仕事です。DomDomは、実験的な音楽とアートのためのハブで、完全にインディペンデントなNGO組織です。ベトナムの実験音楽シーンを担う若い世代を育てるためのクラスを開いています。また、レジデンシー・プログラム、毎月のコンサート、ほかにも付随するプログラムがあります。設立2年目に「ハノイ・ニューミュージック・フェスティバル」を開催しましたが、これはセンターの2年分の活動の蓄積を発表するショーケースであり、また、ヨーロッパの音楽家も招待してベトナムと国際的な実験音楽シーンをつなぐものです。
―どのような動機で始めたのですか?
チャン:ドイツ留学から2005年にハノイに戻りましたが、その時、ここには現代の新しい音楽をつくり出す土壌がまったくないことを痛感しました。ベトナムで実験音楽を育てるセンターをつくるというアイデアは、社会のためというより自分のためのものでした。自分自身がここで生きるために、いわば「文化の生態系システム」が必要だったのです。自分の作品を聴いてくれる聴衆、専門の批評家、作品について語りあえる仲間、つまりプロフェッショナルなコミュニティが必要でした。これが活動の出発点でした。
同時に、実験音楽を実践することが、作曲家として、人間として、個人にいかに大きな影響を与えるか自分の経験から知っていました。ですから、実験音楽が特に若い世代に影響を与え、それがいかに社会を動かし、コミュニティを内側から変え得るか、という試みでもあるのです。
写真:山本尚明
―「自分のため」と「社会のため」は、別のことではないのですね。今あなたが実践されていることは、音楽家として作品をつくる技術やものの考え方など、つくり手を育てることがひとつ。また、今おっしゃったように、つくり手と受け手がいて初めて音楽はその間で成立すると考えると、その受け手の土壌を耕すことがひとつ。そしてそれをつなぐジャーナリズム、クリティックの存在。これら3つを一緒に、スパイラル状に引き上げていくことですね。ただ、それをひとりで、あるいはひとつの組織でやろうとしていることに驚きを覚えます。
チャン:あなたのおっしゃることはわかります。人を育てること、教育は本当に大きな仕事で、全体的なシステムを必要とします。一個人やひとつの団体でできることではありません。
今ベトナムで行われている音楽教育には、現代音楽のカリキュラムはありません。たとえば、作曲科のクラスでは、20世紀以降の音楽はほとんど教えませんし、アカデミックな音楽以外の世界の様々な音楽についても触れません。学生たちは過去100年の世界の音楽から隔てられているのです。これは一例で、教育の方法論も旧来のものです。学生自身の考え方や創造力を発展させ、芸術における個人の自由な表現を育てるのではなく、いわば職人的な技術教育を行う場なのです。
現在主流の教育機関や芸術機関―音楽院、劇場、オーケストラ等―には、現代の音楽を発展させる方針もプログラムもまったくないので、状況を変えるのは容易ではありません。この状況を変えることができるのは、それらとは違う、外側の活動です。
実験音楽の道へ
―幼少からピアノを始められたのですね。後に、音楽院で作曲を勉強されました。
チャン:はい、ピアノを学んだのも音楽院です。ベトナムの音楽教育システムのお話をしましょう。ベトナムは、旧ソビエト連邦のシステムを輸入しました。したがって音楽院の教育期間は15年間―初等教育7年、中等教育4年、そして大学教育で4、5年。それぞれの期間は必修で、修了しないと次の課程に行けません。15年間、同じ仲間と一緒に過ごすので、プロの音楽シーンではほとんどが知り合いです。
―ご友人、知人の多くはそのまま西洋クラシック音楽の実践者になったけれども、あなたは別の道に進まれたのですね。
チャン:はい、普通でない道に。ベトナムは1986年に大きな変革を迎えました。経済を刷新し市場を開放したのです。1988年頃から外国人がベトナムを訪れるようになりました。ヨーロッパ諸国の音楽専門家たち、東側ではなく西側の音楽家たちが音楽院で講義をするようになりましたが、そのうち幾人かはベトナム人の作曲家でした。彼らはベトナム戦争の時に国を離れ、外国で勉強し、外国で有名になった人たちです。フランスのトン・ツァ・ティエ (Ton That Tiet) やグェン・ティェン・ダオ(Nguyen Thien Dao)のように。彼らは皆、この改革の直後にベトナムに来て、プロフェッショナルな音楽シーンや音楽教育の世界で多くの活動を行いました。私は彼らの講義に参加して、20世紀、21世紀の西洋現代音楽に初めて触れたのです。当時学生は、そのような音楽をすることは許されていませんでしたが、2人の学生が現代の音楽にさらに興味を深めていきました。私は、DAAD(ドイツ学術交流会)の奨学制度を利用してさらにドイツで勉強を続けました。これが私に大きな改革をもたらしました。
写真:山本尚明
ベトナム伝統音楽を実践で学ぶ
―ヨーロッパに留学する前から、ベトナムの民族音楽を学ばれていたのですか?
チャン:はい。当時音楽院には、ベトナム伝統音楽を学ぶ大きな学部があって、作曲や指揮の学生も、伝統音楽の演奏と理論を学ぶことが必修でした。その頃、音楽学者のあいだで、見せかけではない本当の伝統音楽の価値を探求しようとする運動が起こっていました。彼らは、これを小さいながらもとても重要な運動だと考えていました。ベトナムの音楽教育システムのなかで行うのは大変難しいことに着手したのです。
私はベトナム北部で生まれ育ち、その文化と音楽にはとても強く結びついています。音楽院在学中にはベトナム南部の音楽も研究しました。ベトナムの2つの川の流域、南部のメコン・デルタと北部の紅河デルタに栄えた強大な古代文化について、独自の研究も行いました。
伝統の問題は簡単ではありませんね。ベトナムのほとんどの伝統音楽はすでになくなりつつあります。政府には伝統音楽を保存するという大きな方針はあるものの、それを実践する施策はありません。伝統音楽の最も優れたマスターたちが、後継者もなく沈黙のうちに亡くなっていくにまかせてきました。今私たちに残されているのは伝統の表層、モダンに装われた表層だけで、それは伝統音楽の幻影のようなものです。本物ではありません。ベトナム伝統音楽のスピリットとエッセンスは、最後のマスターたちとともに消えつつあるのです。
資料で研究しようとしても、何も残っていません。ベトナムでは、伝統的な音楽は記譜されるものではなく、戦争中や戦争直後に行われたレコーディングは、録音の質が悪く何も残っていません。専門の研究機関にさえまともなアーカイブがないのです。ですから、自分で実際に歌い、演奏することが伝統音楽を学ぶ方法なのです。
私は、ベトナムの歌舞劇「カイ・ルオン(cai luong)」や「ハット・トゥオン(hat tuong)」の歌を学びましたが、さらに勉強を続けなければなりません。日本の琴に似た「ダン・チャン(dan tranh)」 という16弦の楽器も弾きます。これらは本物のマスターたちから学ぶことができました。その何人かは数年前に亡くなりましたが。
―ハノイ音楽院には、西洋音楽と伝統音楽それぞれ別の学部があるのですか?
チャン:そうです。ただ、伝統音楽学部ではなく、伝統楽器学部という名称です。
アジアのいくつかの国々でも同じ状況だと思いますが、ベトナムでは伝統楽器を演奏することと伝統音楽を演奏することとは必ずしも同じではありません。ベトナム国立音楽院(旧ハノイ音楽院)には伝統楽器のとても大きな学部があります。でもそこでは伝統音楽の演奏を学ぶのではなく、伝統楽器のために新しく作曲された作品を演奏するのです。
―若い世代にとっては、マスターに学ぶことは難しいことなのでしょうか。
写真:山本尚明
チャン:その通りです。伝統楽器学部の学生がもし本当の伝統音楽を学びたいと思うなら、数少ないマスターか、あるいはマスターから直接指導を受けたエリート音楽家たちのところに行くしかありません。音楽院では学べないのです。
―エリート音楽家?
チャン:はい。戦後、マスターたちから直接学ぶことのできた特別な音楽家世代です。彼らが今仕事をしている劇場や音楽団体では、伝統音楽は大切にされていませんが、それでも、彼らの身体のなかにはまだ伝統音楽が生きています。もし、今彼らとともに優れた継承プロジェクトをつくることができれば、次の世代にその伝統を受け渡すことは可能でしょう。ただ、私の知る限り、まだ例はありません。
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