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ガリン・ヌグロホ――挑戦するシネアスト、飽くなきインスピレーションに導かれて

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

アジア・ハンドレッズインタビュー中のガリン監督と油井氏の写真

映画への道のり

油井 理恵子(以下、油井):東京国際映画祭(TIFF)に招かれるのは12回目と聞きましたが、それだけ、映画を活発に制作しているという証拠かと思います。

ガリン・ヌグロホ(以下、ガリン):どんな監督も12回来るのはなかなか難しいでしょう。
規則正しく、少なくとも2年に一本は映画を制作するよう自分に課していて、2年以上時間が空かないようにしています。義務的に作るのもいいですよ。自己管理ができ、運営システムを整えることができます。スポンサーを探したり、参考資料を探したり、2年というターゲットがあることにより、自律的に関わることができます。

油井:フィルモグラフィーを改めて調べましたが、たくさんの映画を撮られています。最初の長編映画『一切れのパンの愛』は1991年作です。

ガリン:その頃はCMを並行して制作していました。グダン・ガラム*1 、サンプルナ*2 、インドネシア銀行などの広告、総選挙の広報を作っていました。1992年、1993年あたりです。他に、1986年から映画批評も書いていました。1983年あたりからはジャカルタ芸術大学で助手をしていました。今も修士課程で教えています。

*1 インドネシアのたばこメーカー。

*2 インドネシアのたばこメーカー。1、2とも、巨大財閥。

油井:1980年~90年代はまだスハルト政権時代、オルデ・バル(新秩序体制)です。その頃の映画監督は、表現の自由を制限されていました。

ガリン:スハルト時代は、 『水とロミ』(1991)のような社会派ドキュメンタリー映画を撮影するのは難しかったです。NHK制作の『カンチルと呼ばれた少年』(1995)もそうです。カンチルというストリート・チルドレンの少年のドキュメンタリーを撮りました。1995年にこのドキュメンタリーを制作し、これをベースに1998年に『枕の上の葉』を制作し、映画館で公開しました。ちょうどスハルト政権崩壊の時期です。1998年以前には、社会問題を扱ったドキュメンタリーはほとんどありませんでした。ドキュメンタリーと言えば、民族学的な内容、地方の開発の様子や先住民族の話などで、政府を批判するような内容ではなかったです。『水とロミ』はドイツの資金提供で制作し、『カンチル』はNHKの番組でした。その後、ジャワ以外の島へ旅して映画を制作し、ジャワに戻って『オペラジャワ』(2006)を作りました。ホームに戻ったわけです。

油井:監督の映画はたくさんあるのですが、なかなか見られません。ビデオやDVDなど市場に出ていないので探すのがとても難しいです。

ガリン:インドネシアでは流通していないです。『枕の上の葉』(1998)や『オペラジャワ』など一部は海外で販売していますが、全作品ではありません。私はちょうど政権の移行期にいました。その頃映画産業は壊滅的でしたし、流通も止まってしまいました。経済危機の時代ですからね。1991年あたりから、国産映画の制作数が減り、1998年の政権交代の後も危機は続きました。1991年から2000年くらいの10年間、映画産業はほとんど低迷していました。まさに私の危機の時代でもありました。

アジア・ハンドレッズインタビュー中のガリン監督の写真

油井:そんな苦しい時代に、監督はよく撮り続けられましたね! 同世代の監督で残ったのは、故ゴトット・プラコサ*3 氏ぐらいかと。スポンサーがいたのですか?

*3 ゴトット・プラコサ Gotot Prakosa (1955-2015)
1993年国際交流基金アセアン文化センター主催「インドネシア映画祭」に、ガリン・ヌグロホと共に新進映画監督として招へいされた。実験的なアニメーション作品を多数制作、ジャカルタ芸術大学で後進の育成に従事した。

ガリン:彼は短編映画を撮っていました。長編映画を撮る監督はほとんどいませんでした。たぶん2、3本長編映画を撮って、全く公開されないのでほとんどの映画監督は諦めてしまったんでしょう。私は気にしませんでした。スポンサーなどはいませんでしたが、新聞に記事を書いたり、教えたりで、どうにか生活していました。映画だけでは食べていけませんでした。

油井:反政府的と捉えられなかったから、継続できたのでしょうか?

ガリン:そうでもないです。方法が良かったのかもしれません。本当は政府批判に溢れているのですが。『天使への手紙』(1994)では、中央集権について批判しています。『枕の上の葉』以前は社会批判の映画は無かったですよ。『ある詩人』(2000)は9月30日事件後の“アカ狩り”*4 を描いた作品で、未だに恐れてこの時期を描かない人が多いです。『民族の師 チョクロアミノト』(2014)のチョクロアミノトはコミンテルン*5 との関係もあり、国内で取り上げる人はいません。『Aku Ingin Menciummu Sekali Saja』(2002)では、「自由パプア運動*6 」の旗を何百枚も使いました。『目隠し』(2012)はイスラム過激派のNII*7 (インドネシア・イスラム国家)の話です。誰がこんな危険なテーマを取り上げますか? 「殺す!」とソーシャルメディアで書かれることなんてしょっちゅうです。実際に何度か「殺す」と脅されました。『スギヤ』(2012)は初めてカトリックを描いたものです。インドネシアではカトリックはセンシティブな問題です。イスラム教徒がカトリック教徒に改宗して司教になる話です。今まで取り上げた人はいません。他の映画よりよっぽど挑戦的で、議論を巻き起こす映画が多いのです。しかし、勇気を持たなくてはいけません。ヒーロー映画ばかり撮っても仕方がないでしょう。

*4 1965年9月30日に起きた軍事クーデター未遂事件、事件の首謀者とされた共産党掃討のために、大規模な「共産主義者狩り」が行われた。

*5 共産主義インターナショナル

*6 Organisasi Papua Merdeka, (OPM) 1965年以来、西パプア地域のインドネシアからの独立運動を行っている。

*7 インドネシアにおけるイスラム教を国教とする国家建設を目指すイスラム過激組織、「ダルル・イスラム」(DI)とも呼ばれる

油井:初期の段階ですでに日本を含め海外映画祭に招へいされ、国際的に有名になっていたので、政府もガリンさんに下手に手出しをできなかったということでしょうか?

ガリン:実際、それが助けになりました。佐藤忠男さんの力が大きかったです。1991年、インドネシア政府はアリフィン・C・ヌール*8 監督の『タクシー』(1990)を推していたんです。その頃は海外へ出す映画は、情報省のフィルム・コミッションが映画を選定していました。スハルト時代は自由に映画を海外に出せなかったのです。そして佐藤忠男さんとフィリップ・チアさんがインドネシアに来て、インドネシア映画祭で『一切れのパンの愛』(1991)を見ました。インドネシアの映画関係者には話しませんでしたが、佐藤さんは私に「ガリン、『一切れのパンの愛』を選ぶので、誰にも言わないように」と口止めされました。そして1991年9月の第4回東京国際映画祭に招へいされ、上映されました。海外では初めて東京で上映し、その後シンガポールでも上映されました。佐藤忠男さんとフィリップ・チアさんのおかげです。

*8 アリフィン・C・ヌール Arifin C Noer (1941-1995)
詩人、演出家、脚本家、映画監督 1970~80年代のインドネシア映画黄金時代を築いた一人。