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『疫病とドリアン』 アズハリ・アイユブ/野中葉 訳

Essay / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インドネシア)

疫病とドリアン

アチェにはコロナはない、イスラーム法を施行しているこのアチェには神が介入し、人間を死に至らせる疫病の猛攻から人々を守ってくれる、と多くの人が信じている。あるウェビナーで、アチェの大学の公衆衛生専門家が内実を暴露したこともある。ジャワで長期間閉鎖されているモスクや礼拝所を拠点に、アチェでは、とても密かにではあるが、集団礼拝が行われていると。

日々の生活でも、アチェにはコロナが存在しないと思わされることが多い。州都バンダ・アチェのあちこちにあるコーヒーショップは、夜まで多くの人で賑わっている。大衆市場はいつも通り開いているし、ショッピングセンターは、断食明けの大祭が近づくにつれ大賑わいだ。パンデミック中であっても、アチェでは、結婚式の予定を変更しようとする人はいない。少し郊外に行けば、狭い道を塞ぎ、300人も1,000人もの人たちを収容できる大きなテントを立てて、結婚のお祝いが行われているのを見ることができる。富裕層の人たちは、これの3倍もの数の訪問客を収容できる高級ホテルや建物を借りて、結婚式を行っている。子供の結婚式の装飾のためだけに8億ルピアをつぎ込んだ官僚もいる。全国的には禁止されているにもかかわらず、各教育機関では、こっそりと、対面での授業が続けられている。さらに、預言者生誕日には、若者たちが悪びれず隊列を組み、松明を手に町を練り歩き、祈祷しながらお祝いする姿も見られた。それではアチェでは、コロナは、どこに隠れているのだろう。

ウイルスが存在しないのではない。データがないのだ。コロナに関する唯一のデータは、アチェ州保健局のウェブサイトに掲載されているが、それもかなり限られたものだし、それ以外の情報は一つもない。パンデミック中、この保健局はデータ収集の最前線の部局であるにもかかわらず、まるで難攻不落のアラムート城砦のようだった。何人ものジャーナリストたちが、コロナ対策に関する政府のプロパガンダを鵜呑みにせず、自らの取材での裏取りを試み続けたが、彼らにとって、アチェの保健局長は、パンデミック中、最も連絡を取りづらい官僚だった。ある研究者も同じ不満を述べている。去年、彼は調査のために公的データの使用許可申請書を提出したが、当局からはまだ返事をもらえていないという。アチェ政府は、どうやらこのパンデミック時代に、官僚は活発に動かない方が良いという新しい戦術を学んだようだ。そうすればするほど、ウイルスは次第に消えてなくなっていく、と彼らは信じているのだ。

もちろん、似たような戦術は、インドネシアの他の州でも実施されている。それは、コロナ拡大の渦中、あたかもその自治体が良いパフォーマンスをしているように見せるため、また、その地域が高い危険性を有するゾーンに含まれないようにするため、「データを紛失する」というものだ。死亡者のデータはどうだろうか?本当なら、異常に高い死亡者数のデータは、きちんと検証されるべきである。けれどアチェでは、こうした検証はほとんど行われる可能性がない。なぜなら、データ自体、いまだに過少に報告されたり記録されたりしているからだ。加えて、いくつもの公共墓地が各村に散らばって存在していることも、事をより難しくしている。パンデミックが発生した直後、私は、アチェの市民課がどのように市民の死亡データを集めているのかを調べるため、知人のジャーナリストを、ピディ県の市民課に派遣したことがある。そしてアチェでは、死亡の登録が消極的な形式でしか行われていないことを突き止めた。市民課は、死亡した人の家族が故人の死亡を市民課に登録することによってはじめて、その死亡を確認することができる。しかしこの登録は、故人の年金を家族が引き継ぐ場合と、故人の配偶者が再婚する場合、という2つの目的を除いてほとんど行われることがない。つまりアチェでは、人が亡くなった場合、その人の死は、公式に登録されることもあれば、そうでないこともあるのだ。急ぐ必要はないのかもしれない。いずれにしても、その人はすでに亡くなっているのだから。しかしこれは、アチェ政府の統計に、アチェの内紛で犠牲になった何千もの人たちの死が記録されていないことと、全く同じ状況なのである。

日々私は、コロナの存在すら信じていない多くの人たちと対峙している。保健局の職員、大学教員、漁師、警官、弁護士、人権活動家、政治家、労働者、アーティスト、宗教家、主婦、元公務員の年金受給者、農民、運転手、エッセイストなど、彼らの社会階層と教育レベルは、とても多様である。コロナの存在を信じない人たちのことは、先進国も含め多くの地域で報告されていて、決して新しいことではないので、私は全く驚かない。彼らの考えを変えようと努力することもない。コロナで亡くなった人の遺体を、病院担当者や遺体処理担当者のもとから奪っていく家族の話は、ここでは、あまりによく聞く話になってしまった。もはや聞いても飽き飽きするだけで、エッセイのネタとしては、全く面白味がない。

パンデミック発生当初、この疫病について、私は矢継ぎ早にSNSに投稿したが、今ではもう1年以上、それを止めている。その理由は、一つには、私が疫病の専門家ではないからである。その反対に、私は、コロナの存在を信じない人や、ワクチン反対派の人たちから、継続的に彼らの主張を聞かされている。サバン*では、ほんの1時間ほど前に知り合ったばかりのバイクタクシーの運転手にさえ、証拠としてのYouTubeの動画を見させられ、ワクチン接種を止めるよう説得されたこともある。私は、彼が証拠として提示したそのYouTube動画を、最後まで20分間見続けた。それはワクチンの歴史に関するある宗教家の説教動画だった。その宗教家はもちろん、ワクチンの専門家でも歴史の専門家でもない。でも、彼の上手な話術は聴衆を惹きつけた。だから、私のこの新しい友人が彼から大きな影響を受け、私のことを災害から守ろうとしてくれたことについても、全く驚かなかった。動画を見終わった後、私は、ゾンビのように無表情のまま、そのバイクタクシー運転手を見つめ、OKと言った。彼が参照するビデオの中の演説家に対抗し、彼を攻撃しようとは少しも思わなかった。なぜなら、私の妻の友人の公衆衛生専門家でさえも、ワクチン接種に反対で、その理由の一つとして、SNS上で広まっているこの種の説教動画を利用していることを、私は知っていたからだ。

* アチェの北にあるウェー島の町。インドネシアの最西北の町として知られる。

あるとき、私は、何十年もの間、悪の魔力と戦ってきた知恵者たちが住む地域を訪問することに決めた。YouTubeで彼らの動画を見た後、疫病ハンターとして行動しているこの人たちを探すため、アチェの西海岸に赴いた。その地域に行くためには、西海岸の町ムラボーから北に向かって、バイクで40分走る必要があった。それは、ちょうど花を咲かせているドリアン畑やマンゴスチン畑を通る、景色の良い道のりだった。ムラボーの何人かの友人——彼らの多くはマスクを着けていなかった——は、その場所の名前を聞いて震え上がった。友人たちによれば、そこでは、いまだに黒魔術が蔓延(はびこ)っていて、時々、人々は、訪問客への食べ物の中に、新たに調剤した毒を混ぜて試すことがあるという。私は、そんなことは嘘だと反論した。ここ10年で私は現地を4回訪れ、そのたびに、彼らの家で満腹になるまでごちそうになり、食べたり飲んだりしているのだ。私が唯一恐れているのは、ウイルスだけだった。それでも、断食明けの大祭から4日目に、現地に行こうと考えたのは、ちょうど2回目のワクチンを打ち終わったところだったからだ。疫病ハンターの話はいったんおいておこう。この馬鹿げたワクチンについて話しておく必要があると急に思い立ったのだ。

私は本当に幸運だった。国軍が動き、ワクチン未接種の人の家の玄関の扉に印を付けると政府が脅し始めるずっと前に、ワクチンを打つことができたからである。こうした政府の嫌がらせは、アチェが軍事非常事態下にあった時代、国軍が、ゲリラの家々の扉に赤で×印を付けていったことを思い出させた。ワクチン接種に関する私の体験は、かなり悲しいものだったし、現実離れしたものだった。優等生的な市民ではないのだが、私と妻はかなり早い時期に、ワクチン接種のためにザイナル・アビディン公立病院を訪れた。その時期はちょうど、政府から、高齢者や医療従事者に加え、教師、芸術家、大学教員をワクチン接種対象者に含めると発表されたところだった。病院に到着すると、もう朝の10時をまわっているにもかかわらず、病院の中は休日のようにとても閑散とした雰囲気だった。患者やワクチン接種のための行列もないし、おそらく断食月で断食中だったからだろうか、何人かの職員はあくびをしていた。アチェのワクチン接種数は、全国で最も低いということは知っておいてほしい。私たちは受付に行った。病院職員は、私と妻の身分証明書を確認すると、私たちが接種をできないことを告げた。一般市民は、まだこの病院ではワクチン接種ができない、というのだ。アチェ政府かアチェ警察の高官から送られた推薦リストに名前が入っていれば話は別だが、と職員は言い、そのリストに我々の名前がないか探し始めた。「その必要はありませんよ」と私は職員に言った。「私の名前は、その中にはありませんから。そのリストに私の名前を入れてくれるようなろくでなしの悪党とは知り合いではありません。もし知り合いだったとしても、その特権を決して利用しません。なぜなら、順番を大事にするからです。政府の説明に基づいてここに来たんです。本来ならそれで十分なはずです。」職員は、私の怒りを理解していたが、我々を助けることはできなかった。私はこの職員に、責任者である上司に会わせてくれるよう頼んだ。もはやワクチン接種を認めさせる気力はなかったが、ただ責任者の説明を聞きたかったのだ。職員は、ある番号に電話をし、我々にここで待つように言った。責任者は会議中だとのことだった。我々は忍耐強く待った。15分経たないうちに呼ばれ、なんとワクチン受診前の問診のための机に来るよう言われたのだった。我々が待っていた男性は、ついに現れなかった。こんな事情でワクチン接種ができたというこの小さな奇跡も、うんざりさせられたことを思い出しただけで、エッセイのネタにするには面白くない。

疫病ハンターの話に戻ろう。誤解してほしくないのだが、彼らはドゥクン(呪術師)でも、カルトの占い師でもない。彼らは、3つのもので疫病を退治できると、先祖代々信じ続けている普通の人々なのだ。その3つとは、松明、祈祷、そして隊列である。パンデミックがインドネシアを襲った直後、彼らは、疫病退治のために村中を練り歩く儀式を行った。松明を手に持ち、祈祷をしながら、暗く泥だらけで棘がいっぱいの場所を進んでいった。彼らが大きな声で唱える祈祷は、植物のおしべを黒く焦がすという。だから彼らは、花を咲かせている木を通り過ぎるとき、祈祷を一時ストップするのだった。この行進は、イシャの礼拝(夜の礼拝)後から、スブの礼拝(明け方の礼拝)の前まで続けられた。この儀礼の後には、疫病はこの村からなくなるのだと彼らは信じていた。「いずれにしても、最初の攻撃を我々はすでに与えたのだ」と、ある長老は言った。彼らは、まだ次の攻撃をどう与えようか考えてはいなかった。なぜなら現在、人々の集まりを防ごうと警察や国軍が必死になっており、人が密集するこの儀式の開催が許されるかは警察や軍の意向にかかっていたからだ。彼らは謙虚に、神が彼らの場所を守り続けてくださることに感謝しながらも、世界の疫病は、次第に制御するのが難しくなっていると感じていた。にもかかわらず、この地域で病気になったり亡くなったりする者があったとしても、それはコロナの影響ではないと最終的に考えるようになっていた。大変な状況下で、ようやく彼らに会いに来たのに、彼らが話す内容は以前から全くといっていいほど変わっておらず、私は少しがっかりした気持ちだった。

さて、パンデミックの最中、アチェから何を伝えれば面白いだろうか。

ドリアンの話はどうだろう。

7月以降、収穫の時期に入り、アチェではドリアンがあふれかえっている。普通、収穫の時期は長くても3か月間ほどだ。この時期、ドリアンは大量に収穫されて道端でも売られている。2万ルピアもあれば、道端で景色を楽しみながら、中くらいのサイズで甘みののったクリーム色で甘いドリアンを、丸ごと食べることができる。もしラッキーならば、ドリアンの販売人が、プラスチック製の机と椅子を並べ、ティッシュまで出してくれるかもしれない。こういう者たちは、普通は荒っぽく、何をしでかすかわからないが、ことドリアンのことになるとアチェ人は皆、フレキシブルで、良い人間に変わるのである。もし椅子がなかったら、道端でしゃがんで食べるのも良い。ティッシュがなければ、ドリアンの甘さでべとべとになった指を舐めてしまえばいいのだ。

ドリアンを食べるときは、プルット(Pulut)を一緒に食べることも忘れてはいけない。プルットは、バナナの葉で包み、炭火で焼いたもち米のお菓子だ。ドリアン売りの横にはいつも、何百ものプルットを焼いている女性行商人を見ることができる。近所の家からドリアンの香りが広がってくるのを嗅ぐと、私は何度も心の中で毒づいてしまう。なぜなら今年、まだ2度しか私はドリアンを食べていないのだ。あの疫病ハンターたちも、花が咲いているドリアンの木の下では祈祷しなかったのだろう。祈祷していたならば花は枯れ、この果物の王がバンダ・アチェまで安全に到達することはなかっただろうから。

2年に及ぶパンデミックの中で2度のドリアンシーズンがあり、アチェではドリアン狩りの観光が流行した。アチェの中間層の人たちが休暇で訪れる先だったクアラルンプールやジョホール、ペナン、シンガポールなどは、全ていまだに観光客を受け入れていない。お金の別の使い方として、北スマトラのメダンへの旅行もあるが、メダンの各地は何度もレッドゾーンに指定され、都市封鎖を全く経験していないアチェの町と比べ、人々の往来に対する規制が厳しかった。最初に紹介した公衆衛生の専門家によれば、メダンでは、パンデミックの間、開いているモスクはなかったという。

通常、ドリアン畑への観光はグループで実施され、そのグループで一番裕福な人が資金を負担する。WhatsAppグループに共有された写真を見ると、彼らがいかに感染防止対策を実施していたか見ることができる。いくつものドリアンをたいらげた後、マスクを着けたり、井戸水で手を洗ったり……。ドリアン畑の所有者は、通常、定年退職直前の公務員だったりするのだが、彼らはとても広いドリアン畑の真ん中にモスクを建てたりするものだ。

隠すことはできない。ドリアンの鋭い香りは、安価なマスクをやすやすと通ってしまう。コロナのウイルスと違い、WHOが示した7ステップの洗い方に従って手を洗っても、ドリアンの香りは手のひらに強く残っている。基礎疾患がある人はコロナウイルスに罹る危険の高い人だが、ドリアンを食べるときにはそれは関係ない。アチェには高血圧と糖尿病の人が多いという国のデータがあるが、それでも、アチェ人がドリアンを食べるのを控えることはない。アチェ人の勇敢さは、そもそもよく知られている。かつて白人の異教徒に立ち向かい、現在では、あらゆる種類の病気と勇敢に闘っているのだ。

昨日、ある訃報が届いた。旧友の子供が、まだ高校生だというのにコロナで亡くなったのだ。私の親戚にも、ご近所にも、コロナで亡くなった人がいる。

コロナは確かにアチェでは目に見えない。死亡の臭いはドリアンの香りほど鋭くない。でも、悲しみは確かに存在する。もし我々が対処を怠らず、政府が事態から正しく学んでいれば、墓穴に入った人たちも助かっていたかもしれない。

ドリアンの収穫期は来年もやってくる。でも永遠の人生に向け旅立った人たちは、そこに参加することはできない。人の訃報にも、もはやあまり心を奪われなくなってしまった。おそらくこれは、とても大きくて到底受け入れることのできない災害に直面したときの、我々人間の自然な防御の姿勢なのかもしれない。