『セカンド・ラウンド』 テレンス・トー/戸加里康子 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(マレーシア)

セカンド・ラウンド

夢は白黒で見るという人がいる。

誰がそう言ったにせよ、それは完全に間違いだ。僕がいる場所は全くモノクロなんかではなかった。そこにはすべての色があった。あるべき場所に。疑う余地のない現実感を生み出すために、すべてのディテールや質感が注意深く選択されているかのようだった。

サーモン・サーフ・カフェ。

僕は馬鹿みたいに、入口の外に突っ立っていた。入るべきかどうか迷っていた。中に飛び込んだら、夢から覚めてしまうかも?条件反射で僕は周りを見回し、入店前にスキャンするための二次元コードや、名前や連絡先を書くノートを探していた。しかしどちらも見当たらなかった。

周りの世界がワープした。すべてが異常に明るくなった。そしてその後数秒間、完全な暗闇に包まれた。誰かが世界の明かりのスイッチを切ったかのように。

目が見えるようになったとき、僕はカフェの中にいた。

そこは記憶の中の店そのままだった。蛍光灯の殺伐とした明かりや、ひびが入った床のタイル。木のテーブルの角には粘つくガムの噛みかすがついている。壁にかけられた安っぽい海の景色。誰も座ったことがないカウンター席の上には子猫の日めくりカレンダー。パスタソースの香りが漂い、小さいゴキブリが隅の方ですばやく動き回っている。

僕はほとんど泣きそうになった。

カフェはそこそこ混んでいて、すべてのテーブルに人影があった。みな影に覆われていて、誰がいるのか全くわからない。みな話し、笑っていた。会話を聞こうとすればするほど、ひと言も理解することができなかった。

隅の席に座った。大学時代はいつも友だちとここに座っていた。テレビが一番よく見える席。

記憶がよみがえる。

ここで2010年のワールドカップの決勝を見ただろう?生中継の間寝てしまわないよう、コーヒーを飲み続けて。スコアを当てることができたら、ただでデザートがもらえた。歓声と笑い声が溢れていた…。僕はスペインに50リンギ賭けた。

ああ、古き良き時代。シンプルで幸せだった時代。「ソーシャル・ディスタンス」や「集団免疫」なんて言葉が、僕たちのボキャブラリーに侵入する前の。

「やあ、イケメン。注文は?」

カフェの店主だった。血色のいい頬に、頭が薄くなった男。いつも年季が入った白いシャツを着て、エプロンをつけている。店主は最後に会ったときと全く同じに見えた。

「やあ、店長。」僕は答えた。知っているけど知らない人間。ここに来ていた数年間、僕は名前を知ろうとも思わなかった。突然罪悪感を覚えた。今さら訊くのは遅すぎるだろうか?変に思われる?

お腹が大きな音を立てた。なぜこんなに空腹なんだろう?

「いつもの?」店主は訊ねた。

僕は戸惑った。記憶を辿ってみたが何も思いつかない。「ええと、じゃあそれで。」

「少々お待ちを。」店主は楽しそうに口笛を吹きながら立ち去った。

僕は店の中を見回した。すべてが普通に見えた。いつも通り居心地のいい雰囲気。ぼんやりとした人影が、座って食事をしている。入口近くでいちゃついているカップル。カフェの真ん中にテーブルを4つ合わせて、14人ほどが集まって座っている。

こんな様子を見るのはずいぶん久しぶりだ。不思議なほど感動的だった。

その時、店の向こう側にいる人影に気づいた。

まさか!?

ラムラ。緑のブラウスにジーンズ。何か飲みながら本を読んでいる。

もしこれが漫画なら、大口を開けた僕のあごは床についていただろう。急にめまいがした。パニック状態で、できることなら全速力で逃げ出したかった。

でも僕はなんとかそこにとどまった。この機会を逃すわけにはいかない。

僕は彼女に近づいて名前を呼んだ。彼女は本から顔を上げた。目と目が合ったとき、電流が体を突き抜けるのを感じた。

ここにいる他の人たちとは違い、僕は彼女の容姿をはっきりと認識することができた。美しく、愛らしい瞳。繊細なハート形の顔。遠い昔に僕がプレゼントしたイヤリングをつけ、手首にはピンクのブレスレットを巻いていた。

「こんにちは、フォン。」彼女は言った。 「ラムラ!」僕は言った。「ああ、よかった。話さなければならないことがたくさんある。でもどうやって…。」

彼女は微笑んだ。

そしてラムラは消えた。半分残った飲み物だけがそこにあった。

どういうことだ?

僕は自分のテーブルに戻った。怒っていた。店主は、ココナツミルクで炊いたご飯におかずをのせたナシ・ルマの皿を持って待っていた。

「大丈夫かい?」彼は訊いた。

「わからない。」僕は言った。「変な一日だ。」

「さあ」店主は微笑んだ。「食べなよ。気分がよくなる。」

僕にはそうは思えなかった。サーモン・サーフ・カフェが近いうちにミシュランの星を獲得するとは思えない。料理の質は安定せず、いいときでもまあまあといったところだ。僕がここに通い続けた理由は、値段が安かったのと、大学から歩いて3分だったからだ。

料理はいつもと同じだった。チキンは少し生っぽく、ご飯は水気が足りず固かった。唐辛子ソース、サンバルはあまりにも辛く、奇妙なナツメグの後味があった。しかし、それでも僕がこれまで味わった中で、最もおいしいナシ・ルマだった。僕はそれを一気にたいらげた。1粒のご飯も逃さないように。

「過去よりおいしいものはない、だろ?」店主は言った。

僕はうなずいた。「このメニューがまだあってうれしいよ。」

「いつぶり?何年経った?」

僕は顔を赤らめた。「ごめん。卒業してから…こっちに来る用事があまりなくて。行動範囲から外れちゃったというか…。」

店主は微笑んだ。「一度ぐらい戻ってきてほしかったな。まだ店が開いているうちに。残念だよ。」

僕はむせそうになった。ここに来てからずっと何か違和感を覚えていた。奇妙で、なんとなく気になる感じが、頭の隅を刺激していた。今その理由がわかった。

「閉店したんだよね?」僕は言った。「昨年だっけ?」

別の記憶がよみがえってきた。

何かの用事でスバンに来た。成績証明書を取りに来るとかだったと思う。昔を思い出して、立ち寄って何か飲んでいこうと考えた。でもサーモン・サーフ・カフェの看板は取り外され、扉は鉄格子で閉め切られていた。

「なぜここにいるの?」僕は訊いた。「これは夢?」

店主は微笑んだ。「いや、違うよ。」

彼は向かいの席に座った。「正直に言おう。今見えている俺は本当の俺じゃないんだ。お前が安心できる見た目にしてみただけだ。」

世界がまたワープした。周りのものがすべて消え、僕たちのテーブルの周りには暗闇だけがあった。すべてが夜に飲み込まれた。

「じゃあ、本当は誰なの?僕はどこにいる?」

「効率のいい質問だね。2つの質問に1度で答えられる。」店主の形をした店主ではないものは言った。

彼はにやりと笑う。「サーモン・サーフ・カフェさ!」

僕が戸惑っているのを見て、彼は続けた。

「人と同じように場所も幽霊になれるんだ。生命に満ち溢れた場所は、特にね。そして、レストランほど生命に溢れた場所は他にないだろう?」

僕は彼を見つめた。驚いていた。「じゃあ、この場所の霊ってこと?」

「その化身ってとこさ。」サーモン・サーフ・カフェは言った。「いいレストランはすべて魂を持っている。客の記憶や経験によって形作られるんだ。」

彼は手を振った。「周りをみてみろ。これは以前の俺の影だ。客はって?昔の常連客の木霊(こだま)さ。俺の時間は終わったけど、先に進むことができない。ここから身動きが取れない。永遠にディナーを提供し続けている。」

「先に進むことができない?どうして?」

サーモン・サーフ・カフェは笑った。「しっかり座って聞けよ。これから話すことを聞いたら飛び上がるぞ。」

彼は体をこちらに傾けた。「こういうことだ。レストランが最後の注文を提供した後で行く場所がある。霊的な、永遠の眠りのための場所だ。レストランの極楽と呼んでもいいかもしれない。戦死者の館ヴァルハラ。レストランが安らかに眠る場所。そんなところさ。でも最近予約でいっぱいなんだ。」

頭がクラクラした。レストランの来世だって?馬鹿げてる。そんな世界、どうやって理解したらいいんだ。どういう仕組みになってる?良いレストランは天国に行き、悪いレストランは地獄に落ちる?生まれ変わってインド系ムスリムの屋台になったり、ローカルのコーヒーショップになることもできる?

「理解しづらいよな。わかるよ。でも本当なんだ」

カフェは何か考えるかのようにしばらく遠くを見つめた後、話を続けた。

「最近の出来事で、仲間の多くが死んだ。こんな風に料理屋の大虐殺が起きることは、ずいぶん長い間なかった。有名なレストラン、俺が知っている本当に素晴らしい料理を出す店が、みんななくなってしまった。俺たちはみな全盛期に命を絶たれた。最悪の危機と、それを上回る酷い対策のおかげで。今や来世に行くのに長い行列ができてる。処理しなければならない事務仕事が山積みだ。そしてそれによって『存在する権威』の間で意見の不一致が起きている。」

「誰の間で?」

「『存在する権威』だ。」カフェは言った。「こういうことをつかさどる神聖な力。神みたいなものさ。俺たちは食神と呼んでいる。奴らは、これほど多くの死者をどう扱ったらいいのかわからない。俺たち全員を受け入れるだけの場所がないんだ。『存在する権威』たちはそれぞれ—そして奴らはほんとにたくさんいるんだが—どのように俺たちを統治するか独自の考えを持っている。でもどれも同意にいたらない。ずっと対立したままだ。議論に次ぐ議論。計画に次ぐ計画。みな高いところで、自分たちのちょっとしたゲームで遊んでいる。その結果、何も対策はとられず、俺たち庶民が苦しむんだ。」

僕はため息をついた。「ああ、よくある話だね。」

「俺は一年近く残業を続けてる。へとへとだよ。」カフェはため息をついた。

「お疲れさま。」僕はそういうことしかできなかった。

「まあ悪いことばかりでもないよ。客にサービスし続けるっていうのもいいもんだ。それが結局は俺たちの役割だしな。それにこれまでのキャリアで一番いいレビュー評価がもらえてる。料理に関していえば、死んだやつは生きてるやつほど、ずっと口うるさくないからな。」

「ちょっと待って。なんだって?」

カフェの最後の言葉が雷のように僕を貫いた。「それって、つまり、僕は…。」

「ああ」カフェは言った。「他に誰がレストランの幽霊を訪れるっていうんだ?」

僕は突然吐き気を覚えた。違う。そんなわけがない。頭が痛み始めた。そしていくつもの記憶が同時に押し寄せてきた。

またしても空腹な夜、財布と同じように空っぽな胃袋…

乱暴にブラウザの再読み込みボタンをクリックする、来るはずもないメールを待ち続けて…

上司からの連絡、不機嫌な顔…

注文を時間通りに届けるためにバイクで渋滞の中を急ぐ…

援助を求めて白旗を掲げ…それは法律違反だと言われる…

部屋のベランダから見た美しいクアラルンプールの景色…

地面が近づいてくるときの腹の中の気持ち悪い感覚…

突然すべてが結びつき、暗く恐ろしい確かさをもたらし、僕が願っていた世界は噓だったことを明らかにした。

「いやだ。」涙が頬を伝い落ちた。「いやだ、いやだ。」
数分の間、カフェは泣いている僕をそのままにしておいてくれた。そして僕を抱きしめた。世界はワープし、再びカフェ空間が、僕の周りに現れた。

「気の毒に。」カフェは言った。「でも、少なくとも…、お前の痛みは消えただろう?」

僕は深く息を吸って、なんとか落ち着こうとした。「これからどうなるの?」

「しばらくこの世界にいることになる。」カフェは言った。「やらなければならない事が全部片付くまではな。それが何であっても。」

彼は微笑んだ。「いいことだってあるぞ。シェーキーズ・ピザを覚えてるか?コロシアムは?うちの向かいにあった古いベトナム料理屋は?ここにはみんなある。行って、楽しかった時代を思い出してこい。昔の友だちに会えるかもしれない。さあデザートにしよう。」カフェは言った。「もし世界に真理なんてものがあるとしたら、アイスクリームはどんなときでも状況を改善することができるってことだな。心配しなくていい。幽霊レストランでは支払いはないぞ!」

彼はバナナスプリットを持ってきてくれた。僕はひと匙ずつ味わって食べた。この数か月あまり食べていなかった。

僕の周りでは、人影が食事や話を続け、普段通りに行動していた。僕が食べ終わると、再び世界がワープした。僕はまた路上にいた。僕は悪態をついた。これに慣れるのは難しい。

そして僕は気づいた。きっと世界はずっと変わり続けていたのだ。たぶん僕には速すぎるペースで…。

僕は歩き出した。いくつかのレストランが暗闇の中からゆっくりと現れた。その多くに、僕は長い間足を向けていなかった。心が踊った。そこでは何を見て、何を食べることができるだろう?


テレンス・トー氏が作品の冒頭を英語で朗読しています(3分14秒~)。お楽しみください。