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『レノンさん』 エドガー・カラビア・サマール/山下美知子 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(フィリピン)

レノンさん

私がレノンさんと知り合ったのは、5月のある夜、蛍を見に行って叶わずに箕面大滝から家に戻る途中、道に迷ったときでした。滝から公園に向かうトレイルは暗闇に包まれていました。蛍がやって来る時期のため電柱の灯りが消えていたからです。遠くからだと人影がほとんど見当たらなかったので、通りすがりにあったベンチに座りました。自分が今どこにいるかを見るためにGoogleマップを開いたとき、突然、動物のような影が私の前を横切りました。目をこらして見ると、背丈が5フィート10インチ(177.8cm)ほどもある男性でした。彼は黙って私が座っている横に来ました。座り方からして、日本人だと確信しました。しかし顔の半分がマスクに覆われていたため彼の顔はほとんど見えませんでした。私はびっくりしました。というのも、見知らない人の横に後から来て座ったりするのは、日本人にとってはありふれた行いではないからです。私が北千里に向かうバスに乗っているときに新たに乗ってきた人たちは、ラッシュアワーの時間帯を除いては、すでに座っている人の横に座るより立っていることを好みます。もしフィリピンにいて、このような暗闇の中に1人でいるときに、突然私の横に来ようとしている人がいたら、私はきっと恐怖を感じたことでしょう。しかしここでは、私に何かしようとする人がいるとは考えられませんでした。ここで自分が置かれている状況とフィリピンでの状況を比べたとき、私はこの深い恐怖の穴に落ちそうになることを抑えることができました。完全なシステムなどない、完全なシステムなどない、私は何回も自分に言い聞かせました。ないですよね?私は携帯を見続けました。自転車を留めた場所までどのぐらいの距離があるのかを見極めるためにです。そのとき、彼が(タガログ語で)「はじめまして」と言いました。

どきどきと動悸が早くなり、彼の方に目を向けました。フィリピン人かな?ありえない。

彼はすぐさま「すみません」と言いました。この言葉で私は彼が日本人であると確信しました。「私はタガログ語ができます、少しだけ」

私がちょっとうなずいたところ、彼はすぐに、1年ほど前、小野原東にある回転寿司で私が列に並んでいるのを見たことがあると言いました。月のあかりで彼の顔を見極めようとしました。彼は私より4歳か5歳年下で20代半ばに見えました。私が必要ないと言うより先に彼はマスクを外しました。彼の笑みには少しばかりの戸惑いが見てとれました。誰も傷つけたくないという戸惑いです。私は彼が誰かわかりませんでした。1年ほども前にどこかで見かけたという人を誰が覚えているでしょうか?私は、昨日乗ったバスに乗っていた人さえ覚えていません。

彼は見かけたことがあるフィリピン人のことはすべて覚えているので、私のことも記憶していると言いました。また、彼は出会った人の中で誰がフィリピン人であるかがわかるとのことでした。先ほど彼は(タガログ語で)「はじめまして」と言いましたが、「直観」でとのことでした。以前は、自分がそのようなことができるとは思わなかったそうです。梅田駅へと上がるエスカレーターで、自分の前にいた女性に勇気を出して挨拶をするまでは。それはかなり前のこと、パンデミックが始まる前で、今からおよそ3年前のことと彼は言いました。彼が「ハロー」と言ったところ、女性はびっくりして彼の方に振り向き微笑みましたが、何と言ってよいのかわからないようでした。彼は、即座に(タガログ語で)「すみません」と言い、続けて(日本語で)「フィリピン人ですか?」とたずねました。女性はうなずき、どうしてタガログ語ができるのかと聞いてきました。「父がフィリピン人ですから」とこの女性に答えたところ、この女性はうなずき、再び微笑んでから改札口に入って行きました。彼がこの女性を再び見かけることはありませんでした。

その晩、彼は同じことを私にもタガログ語で言いました。「父はフィリピン人です」。これは彼が近づいて挨拶をして驚かせたフィリピン人のすべてに、彼が言ったことです。彼が最後に数えたのは62人、私は63番目でした。いかなる時も、自分の推測が誤っていたことはなかったそうです。回転寿司で私に近づかなかったのは、私が日本人と一緒にいたためですが、心の中では私に自己紹介をしていたそうです。当時私と一緒にいたのは、たぶん研究室の先生たちです。というのも私がご一緒したのは先生たちだけでしたから。1人で食事をすることの方が頻繁でした。

私が歩いて自転車を取りに行くと、彼もついて来ました。彼の自転車も同じ所に置いてあったからです。歩いているとき、彼は私に蛍を見たかときいてきました。私は「見ていません。1人だとたぶん運が悪いのでしょう」と言いました。公園で蛍を見ることができたのは1回だけでした。日本に来て1年目、初めて公園に行ったときで、浅井先生が私に付き添ってくれました。その後、何回か公園に行きましたが、1人だったので再び見ることはできませんでした。話をする中で、彼のタガログ語の方が私の日本語よりレベルが高いことがわかりました。私は彼がフィリピンに住んでいたと思っていたので、彼が独学だと言ったときには驚きました。毎日、1人で自分自身に話しかけ、YouTubeを見ての練習です。タガログ語を習得するという固い決意をしているとのことでした。自転車を取り出したとき、彼は私にコーヒーを飲みに行くか、それとも居酒屋に行くのはどうかと聞いてきました。時間は9時になるところでした。翌朝研究室に行く必要があったため、私はコーヒーにしようと答えました。彼が喫茶ヒロで良いかときいてきたので、「どこでも」と私は言いました。自転車でおよそ20分、喫茶店に着きました。店は開いていました。緊急事態宣言以降、閉店は再び11時になっていました。2人ともたばこを吸いませんでしたが、屋外にあるテーブルを選びました。彼が注文したブラジルコーヒー、私が注文した「いながわコーヒー」はすぐに出てきました。

2人してマスクをはずしたとき、私がさきほど推定した年齢よりも彼は若いと確信しました。私たちは「はじめまして」と挨拶を交わしましたが、お互い名前をまだ知らないことに気づき、2人して少し微笑みました。私は自己紹介をし、ゼブラフィッシュで遺伝子組み換えの研究をするため大阪大学の吹田キャンパスにある研究室で働いて5年になるが、パンデミックのため、延長に延長を重ねていると言いました。彼がゼブラフィッシュを知っているのかどうかはわかりませんでしたが、彼は私の言うことに興味を持ったようでした。すると彼は自分の名前がレノンであること、以前、新宿でバンド演奏をしていた父親がジョン・レノンから取った名前を付けたと言いました。しかし彼はビートルズが好きではないので、このことについては自分に質問しないで欲しいと言いました。彼は父親のことは知らないとのことでした。その理由をたずねてよいのか私にはわかりませんでした。彼は、三重県の伊賀で母親によって育てられ、高校生になったとき、母親と一緒にここ大阪の茨木市に引っ越して来ました。彼は以前からフィリピンに行くことを計画していましたが、母親が病気になったため何度も延期をしてきたとのことでした。そしてパンデミックの発生です。私は彼のお母さんは元気かとたずねましたが、質問した直後、後悔しました。というのも、彼の表情から母親がすでに亡くなっていることが読み取れたからです。私は「すみません」と言うと、彼は少しうなずきました。私は彼にきょうだいがいるのか、私と同じようにひとりっ子なのかとはたずねませんでした。

彼は私にカランバ市に行ったことがあるか聞いてきました。私は彼がリサールのことを知っているかどうか試すために「はい、リサールの生家に」と言いました。すると彼は、リサールはヨーロッパに行く途中日本に立ち寄り、日比谷公園で何人かのフィリピン人と知り合ったと言いました。これを聞いて私は恥ずかしい思いをしました。シュトラウスの曲を演奏し終わったばかりの交響楽団の団員たちでした。大学で取ったリサールの授業で私が覚えているのは、リサールが日本で女性と恋仲になったということだけでした。女性の名前も覚えていませんでした。頭に浮かんだのはオノ・ヨーコでした。するとレノンさんは「勢以子さん」と言いました。私は、リサールの時代でも演奏のため日本に来ていたフィリピン人がいたことに驚きました。しかしそのことを彼には言いませんでした。私がたずねたのは、彼の父親がカランバ市出身かということです。わからないとのことでした。彼は日本の温泉とどこが違っているのかを見るためにカランバ市にある温泉に入ってみたいとのことでした。「幸運を」との反応が自然に生じましたが、そんな自分の反応に後ろめたさを感じました。自分には後ろめたさを感じる理由は何もないと思いましたが、自分には後ろめたさを感じる理由が何もないと考えること自体に後ろめたさを感じました。

すると彼は、唐突に1人で暮らすのは大変かと聞いてきました。私は思わず「えっ!?」と大きな声を出してしまいました。日本人がタガログ語で私と話すときは、私はいつも、この人は本当にこんなことを言いたいのかと気を使ってきました。私が理解していることは正しいのだろうかとも思いました。しかし、彼はあたかも誰も傷つけたくないというように微笑みました。「大丈夫です。慣れています。」と私は言いました。

次に彼は「絶望をタガログ語で何というのか知っていますか」と質問してきました。私は再び「えっ?」と言いましたが、今回は前よりもずっと弱い「えっ?」でした。英語でもわからなかったので、スマホアプリで探してみました。despairhopelessnessと出てきましたので、ほっとしました。

すると彼は「タガログ語を勉強するときにいちばん好きなことは、突然頭に浮かんだ日本語に相当するタガログ語があるかどうかを考えることです」と言いました。頭の中で橋を完成させ、その橋を渡ることに彼は喜びを感じているようでした。橋を作ることが、単に空隙(くうげき)を作りだしてしまうという愚か者のようであっても、とのことです。彼は「愚か者」という言葉を使いました。私はこの2年間耳にしていなかった「愚か者」という言葉を彼が使ったことに注意を払いませんでした。私は彼の質問である「絶望」に当たる言葉を言うだけにしました。現在、フィリピノ語では、「絶望」の形容詞形である「絶望している」に相当する “desperado”(デスペラード)が頻繁に使われていると私は言いました。「スペイン語からですね?」と彼は言いました。実際のところ批判ではありませんでしたが、彼の言葉は私の心をグサッと刺したように感じました。

私は「希望がありません」も使われていると付け加えました。「絶望」とは「希望がないこと」そのものだからです。彼は笑みを浮かべました。「タガログ語の単語には『希望がないこと』という概念がないということですか?」と彼は聞いてきました。彼は「希望がないということはない、何と素晴らしい、違いますか?」、彼はこの世界で素晴らしいものをたまたま見つけた子供のように言いました。以前、私が箕面大滝で蛍を見つけたときのようでした。私は「その通りです、何と素晴らしい」とうなずきました。希望がないということはないのです。ただそれは、スペイン人が「絶望」を意味する“desperasyon”(デスペレーション)を紹介するまでのこと、切望していたが手に入らなかったさまざまな事柄に対し、「絶望している」とお互いが使うようになるまでのことでした。これらの言葉を取り入れたときに、そもそも最初から望むべきではなかったものに対する私たちの切望も一緒に芽生えたのではないのでしょうか?暴力は何事に対しても考慮などはしないと考える方がわかりやすいと言えます。暴力は暴力をふるうことができる空間すべてを見つけることができるのです。このような時代以前、絶望という言葉が現れる前の時代、希望がないということはない時代に戻ることができたらどんなにか良いでしょう、違いますか?真の不幸とは、時間と共にすべてが過ぎ去っていくことではなく、また過去から遠ざかることでもなく、同じことが同じ場所で繰り返えされること、あるいは、何であるかわかっていないことを繰り返し待ち続けることかもしれません。私はカップに残っていたコーヒーを飲み干しました。絶望のことを考えていて流されてしまった自分の意識を取り戻すためでした。

私に何を望んでいるのか、彼にたずねたいと思いました。彼が絶望のために私に近づいたならとんでもないことです。しかし私がそのことを言う前に、彼は立ち上がり、トイレに行くと言いました。私はうなずき、何時に寝て、明日は何時に起きて仕事に行こうかと考えました。 いつ家に戻れるか考えていました。私が今滞在している所ではありません。故郷に戻ることです。どうしてフィリピンではもっと寂しくなれるし、もっと幸せにもなれるということを信じたいと思うのか考えていました。不幸を一緒に経験することで、ありふれた人生でも幸せになることは可能なのです。おばは、ほぼ毎日、死にかけている知り合いや親戚について携帯メールを送ってきていました。この世はもうすぐ終わるのに自分はまだここにいると考えていました。私はここにいるのです。

学生アルバイトと思われるウェイターが私の所にやって来ました。最後の注文とのことです。この時になってレノンさんのトイレがかなり長いことに気づきました。外からはトイレのドアは見えませんでした。15分以上は過ぎていましたが、まだ戻って来ていませんでした。喫茶店からは次々と人が外に出て来ていました。すでに11時でした。店の中にいる若いウェイターが何回も私の方をちらちらと見るのが目にはいりました。いつ私が立ち上がり出ていくのかを待っているようでした。トイレで彼に何かあったのでしょうか?私は立ち上がり店の中に入りました。ウェイターの1人にトイレがどこかとたずねました。ドアまで行くと、ドアは閉まっていませんでした。ドアをノックしましたが、返事はありませんでした。ドアの取手を回し、開けました。そこに彼はいませんでした。そこにいたのは、私を取り囲む鏡に映っているたった1人でいる1万人の自分の姿でした。


フィリピノ語からの翻訳