Wilujeng siang スンダ語で、こんにちは! 今日はバンドンで出会ったご年配の方のことをお伝えしたいと思います。平均寿命が70歳台というインドネシアで、なかなかお目にかかれることはないだろうと思っていましたが、1940年代前半、日本が統治していた時代に小学校低学年くらいだった方に、会いました。
最初に出会ったのは、あるNP(日本語パートナーズ)の派遣先校での文化祭でのことです。ご年配の方が近づいてこられると、日本語が少しできますと話され、子供の時に学校で日本語を勉強し、毎日「君が代」を歌ったと言って、歌われました。当時を知る方に複雑な思いを感じるとともに、日本に良い印象を持っておられたことに、ほっとしました。
次は、私の派遣先校バンドン第18国立高等学校の先生のお母様です。10年生(日本の高校1年生)のお孫さんから、学校に日本人がいると聞いて、母がぜひ会いたいと言っていると言われました。この方は85歳、ジョグジャカルタで小学生のころ、インドネシア人の先生から日本語を習ったと言って、名前をカタカナで縦書きされました。息子さんは、もと技能研修生、バンドン工科大学卒業後は、日本企業で5年間勤めたということでした。
最後は、私のCP(カウンターパート)チャヤ先生のお父様です。「シュクランの集い」(感謝の集い)に招待されたとき、「君が代」がうたえるかと言われ、もう一人のNP前原美織さんと斉唱しました。ご家族も日本に留学されたりして日本との関係が深く、静粛な雰囲気でした。
ご年配の方々の中に、歴史の中の日本ではなく、生きている日本があり、今も何らかの形で日本と関りを持ち続けてくれていることに、長い時の流れの不思議を感じました。インドネシアに来ることがなければ決して触れ合うことができなかった日本を知る人々に感謝します。