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経験者に聞く

参加者の声(ベトナム)-日本語パートナーズ、現地の日本語教師・生徒

ベトナム10期 浜桐 陽子さんへのインタビュー

NPに応募したきっかけ

私は32年間、在日米軍基地内のアメリカンスクールで、幼稚園児から小学6年生の生徒に日本語や日本文化を教える専科の教師をしていました。
退職後、今度は大人に教えてみたいと思い、日本語学校でアジア人留学生に日本語を教え始めたのですが、生徒の反応が今まで教えてきたアメリカ人とずいぶん違っていることに戸惑いました。
そして、この留学生たちは自国でどんな教育を受けてきたのだろうか、良い授業をするためには生徒のことをもっと知らねば、という気持ちが日々膨らんでいきました。そのタイミングでNPの募集を知ったのです。
アジアの国の中学・高校の授業に入って、現地の教育を知ることができる!現地の教育を生で体感することができる!まさに私のための機会とも思えるほどのプログラム内容を読んで、すぐに応募することを決めました。

私が32年前にアメリカンスクールの教師に採用されたときは、もちろんパソコンやインターネットもなく、アメリカの教育について何も知りませんでした。自分が受けてきた日本スタイルでの授業はアメリカ人の生徒にはまったく通用せず、何をしても上手くいかない日々でした。アメリカンスクールでは、教師が教壇に立ってずっと授業を進行していくということはあまりなく、教師は主にファシリテーター役として、生徒が自主的に取り組み、意味のある学びに導いていくというアクティブラーニングスタイルでした。現在の日本の教育現場ではアクティブラーニングも取り入れられて授業形式も変わってきていると思いますが、当時何も知らなかった私はアメリカンスタイルの授業を作らねばと、最初の数年は大変苦しい思いもしました。

そして、今度はそのアメリカンスタイルの授業がアジア人留学生に通用しない!
私が日本語学校で初めて担当したのは上級レベルの読解クラスでした。読解教材をもとに生徒が積極的に意見交換できるように、教室内を自由に動いてパートナーを変えたり、発言できる活動やゲーム等をしようとするのですが、まず学生が席を立たない、動かない、発言がなかなか出てこないということにびっくり。
じっと席に座って聞いている受け身の授業より、自ら動いて自分の意見を言いあえる活動のほうが楽しいと思っていたのですが、なかなか私が思うように活動が進まない。
大人に日本語を教える教師としては新米で、自分の経験不足、指導力不足もあったとは思いますが、私が用意したアクティブな教室活動への反応が薄い……。なぜ?なぜ?と思いながらの授業でした。私が日本の学校の教員をしてきたのなら、ここまでギャップに戸惑うことがなかったのかもしれません。アジア人留学生たちも、私のアメリカンスタイルの授業には違和感を感じていたことでしょう。

NPに応募することを決め、すぐに応募の準備にとりかかったものの、派遣希望国の選択にとても困りました。
私はアジアの国のことを全く知らない。そう言えば、20年以上海外にも行っていなかった。
毎日、日本からアメリカに仕事に行くような状態で、とくに海外旅行もしたいとは思わなかったのです。
応募書類を準備していた頃教えていたクラスにはベトナム人が多かったので、とりあえずベトナムを第一希望として応募しました。

それから初めて、インターネット等でベトナムの情報を集め始めたのですが、無事内定通知を受け取った頃には、調べれば調べるほど現地での生活に不安が大きくなっていて、内定を辞退しようと思いました。
とても暑いのに教室にはエアコンがないらしい、ベトナム料理なんて食べたことがない、衛生面は大丈夫かなぁ。そして一番心配だったのが、「ヤモリがいたら怖い」!
私は爬虫類や両生類の生き物が大の苦手。学校での活動はまったく不安も心配もなく、ベトナムの教育を体験してみたくて仕方がないのに、生活&ヤモリへの不安がいっぱい。
なんとか現地の教育を体感してみたい気持ちが勝って、内定を受諾しましたが、出発するその日まで、やっぱり辞めておこうかなという気持ちが私の心の中では毎日見え隠れしていました。
実際ベトナムに渡ってから、あちこちでヤモリとも遭遇し何度も叫び声をあげることとなったのですが、派遣が終わる頃には5メートル以上離れたところにいるヤモリは見ても叫ばなくなっていたのは大きな進歩ですね。

派遣先校では、多いクラスでは48人の生徒が教室にぎっしり座っていました。机も二人掛けで机間スペースもかなり狭く、机を動かしてグループ活動をしたり、自由に動き回ってスピーキング活動やゲームをするのは難しい状況でした。
また、生徒たちは先生に対してとても敬意ある態度で授業を受けていました。
あるとき、授業中に生徒全員が一斉に立ち上がり、何事かと振り向くと教室に校長先生が入って来られました。
生徒としては当然の態度らしいのですが、そのときの敬意を示す空気感に私は感動しました。その日から新しく赴任されたという校長先生をよく見ると、朝私が校門を入ったときそばに立っていたので、用務員さんかなと思い「シンチャオ!(こんにちは)」と言って私が手を振った相手でした。
怪訝な顔をして私を見ていましたが、校長先生だったんですね……現地では、そんなこともありました。

派遣先校での一番の思い出

派遣先校での一番の思い出は、派遣先であったフエを発つ前日に、私が描いて日本から持ってきた蓮の葉の絵を高校の教室に飾り、生徒と一緒に写真を撮って楽しむという夢が実現したことです。

私が日本で住む街はレンコンが特産で、広大な蓮田が広がっています。真夏には大きな緑の葉っぱが一帯を覆って美しい風景を作り出します。私はその蓮の葉っぱが大好きで、ここ数年私の絵のモチーフにしています。
ベトナムの国花が蓮の花だと知ったときは、私とベトナムがつながっていたかのように感じられてうれしくなったほどです。
是非、私が描いた日本の蓮の葉の絵をベトナム人の生徒にも見てもらいたいと思ったのです。地元のアートイベントでは、蓮の葉を傘のようにして写真を撮るフォトスポットを作って参加者に楽しんでもらったので、それをベトナムの学校でも再現したいなと考えていました。

学校での活動がスタートしてすぐに、校内の一角に蓮の葉フォトスポットを作ってみたいと思っていました。
生徒が自由に写真を撮って楽しんでくれたらいいなと思ったし、それ以外にも校内に色々な壁面飾りや掲示板アートを作らせてもらいたいと考えていました。
私はアートやクラフトが大好きなので、自分の得意な分野で学校美化活動に貢献できたらと思ったのですが、校内には装飾的なものは全くありませんでした。
イベント等の際はさまざまな飾りをするのかもしれませんが、通常は何も飾らないようです。CPに尋ねたところ、壁面飾りは難しいかもしれないということでした。
また派遣された時期のフエは、雨期に入り雨ばかりの毎日で、窓を開けっ放しにしている教室は雨が入ってきたり、湿気もあったりして壁面飾りにはまったく向いていません。
残念ながら、派遣前に私とベトナムを結びつけてくれた蓮アート構想は諦めました。
今思えば、壁面飾りやアートは日本の高校でもあまりないかもしれません。アメリカンスクールでは校内の掲示板アートや壁面飾りはよくあることなので、私の発想自体がアメリカンだったのかもしれません。

フエを発つ3日前、出番のなかった蓮の絵をしまいながら、「やっぱり諦められない!」と思ってしまい、翌日CPに、教室の壁に私の蓮アートを飾らせてくれないかもう一度お願いしました。
「生徒が教室に来る前に早く行って壁に飾ります。授業が終わったらすぐにはずします。授業の間の時間だけでいいので飾らせてもらえませんか」と。
CPも私の願いをなんとか叶えてあげたいと思ってくれたようで、空き教室を用意してくれて、壁飾りも手伝ってくれました。
教室に入ってきた生徒は「何?何?」とびっくりしたようで、最初は写真を撮るのも恥ずかしそうでしたが、みんなでたくさん写真を撮るという私の夢がかないました。
授業後は飾りを全部撤収し、私の派遣先校での最後の日は終わりとなりました。
慣れない環境で試行錯誤する毎日でしたが、できることはすべてやり遂げたと満足した最終日でした。

私の蓮アートで生徒のみんなとパチリ。夢が叶った瞬間でした

NPの経験を通して学んだこと

生徒が教室でいつも使っている青いペン1本を通して、世の中に「当たり前」というものは存在しないのだということを実感させられました。

ベトナムの教室でいつも気になっていたことがありました。
どの教室でも生徒はいつもペンでノートをとっている。どうして鉛筆を使わないんだろう。教室では書き間違ったりして直すことも多いだろうに、修正ペンでは面倒くさくないだろうか。鉛筆ならすぐ消して書き直せるのに。しかも青いペンで書くことが多い。特に公式の文書は青のペンで書かなければいけないらしい。どうして黒じゃなくて青?

私は先生や生徒に「どうしてペンで書くの?」「どうして黒じゃなくて青で書くの?」と聞いてみましたが、みんな首をかしげて「どうしてそんなこと聞くの?」と、私を納得させる答えが返ってきません。そして私は逆に聞かれました。「どうして黒で書くの?」私は答えに詰まってしまいました。答えが見つからない。なぜなら、黒が一番基準の色。黒で書くのが私の「当たり前」で、私は自分の「当たり前」で物事を見ていたから。
たかがペンの色だけのことですが、私は自分の価値観が大きく揺さぶられたような気がしました。
自分が日ごろから無意識でしていることは、自分の「当たり前」になっているけど、他の国の物事を自分の「当たり前」という物差しで見るのは違うなと気付かされました。

私が派遣された時期のフエは、雨期ということもあり毎日雨ばかり。しかも激しい雨なのであっという間に雨量も増え、日本でも経験したことのない洪水も経験しました。
スニーカーを履けばすぐに濡れるし、かと言ってサンダルで道路にたまった濁った水の中を歩きたくない。長靴を買いたいけれどスーパーにも市場にも売っていない。
ベトナム人はというと、常に裸足にサンダル。雨が降ると濡れるけど、すぐ乾くからかまわないという感じ。バイクが主な交通手段だから、カッパを着て雨の中を移動する。傘をさしている人すらあまり見かけないほど。
私が滞在していたホテルの周りでも道は腿まで来るくらい洪水であふれていたけれど、雨さえおさまればみんな平気でその中を歩いて開いているお店に買い物に行ったり、足は水につかったままベンチに座ってビールを飲んでいたり、散歩がてらに歩き回っている人たちも。それが彼らの雨期の生活の「当たり前」。
私はというと、日本では車での移動がほとんどで、あまり雨に濡れるという機会もなかったからでしょうか、傘をさしていても服が濡れるのが嫌、とくに足元が濡れるのが嫌。私はこんなに濡れるのが嫌なんだと初めて気づいたくらいです。
私が派遣中に一番欲しかったものは長靴!どこを探してもなくて、結局CPにオンラインショップで注文してもらいました。ようやく念願の長靴を手に入れた頃には、雨に濡れるのは私の「当たり前」になっていたのでしょうか。長靴を履いたのは1、2回で、濡れても乾くから気にしないサンダルスタイルが私の「当たり前」になっていました。

さまざまな日常生活の違いを通して、世の中に「当たり前」というものは存在しないということを痛感しました。
自分の「当たり前」は、他の国の人の「当たり前」ではないかもしれない。自分の「当たり前」で物事を見てはいけないということを一番学びました。

帰国後、現在の職業・活動に活かされていること

ベトナムから帰ってきてすぐ、駅に貼られているポスターを見て違和感がありました。
私の住む街は米軍基地の街で、日米友好や英語推進を図るさまざまな日米イベントがありますが、「日米○○イベント」というタイトルを見て、まるでベトナム人になったかのような気分で帰って来た私は、「アメリカ人以外の外国人は招かれていないの?」と疎外感があった自分に驚きました。
私自身、長年米軍基地内で勤務していた関係で、数えきれないほどの日米イベントに深くかかわってきていたのに、それまではまったく気がつかなかったことです。決して他の外国人を排除しているわけではなく、米軍基地との長年の友好関係活動からの流れで「日米」という表現がよく使われていたのだと思いますが、これからは多文化共生社会を作っていくという意識を日本人もしっかりもっていかなければいけないなと強く思いました。NP活動を終えて、自分の視点が大きく変わっていたことに気付きました。

私は日本語学校で教えていたアジア人留学生のことをもっと知りたいという思いでNPに参加したので、帰国後はすぐにアジア人留学生の教室に戻りました。
アジアの国で教育を受けてきた留学生にもっと寄り添うことができるようになった気がしました。そして、以前よりもっと彼らの事が愛おしく思えるのです。
私が非常勤講師として受け持つ学校では、ネパール人留学生が一番多いです。次いでベトナム人、中国人、タイ人、バングラデシュ人等アジアからの留学生ばかりですが、自分で働いて学費や生活費を賄っており、給料の高い夜中に働いている学生も多いのです。旅行に行ったり日本を楽しむ余裕のない学生がほとんどで、私がしてあげられるのは、よりよい生活へステップアップするための日本語力をつける手助けをすること、日本の生活の中で少しでも興味が持てるものを見つけるきっかけを作ってあげること。そして、今は慣れない国での生活、仕事や勉強で苦しいかもしれないけれど、今の時間がきっとハッピーな人生へとつながっていくはずと言い続けることです。そして、彼らが幸せに暮らしていける多文化共生社会を作っていくことです。

他にも短大や高校で異文化理解講座をしたり、市の交流センターで日本語サポートやジャパニーズカルチャー講座をする機会をいただいており、自分がNP経験を通して実感したものをさまざまな形で伝えていきたいと考えています。

また、アートにも興味がある私はベトナムのアートもできる限り見てきたので、自分のアート作品作りに活かしていきたいです。

帰国後に、私が以前勤務していたアメリカンスクールの小学3年生にベトナムカルチャーレッスンもさせてもらったのですが、機会があれば地元の教育機関でもベトナムカルチャーレッスンやアートワークショップをしたいと考えています。

フエでの活動中に思いがけずテレビ取材の依頼をいただいて、外国人の私がフエでどんな活動をしているのか撮影取材を受けたときには、アートに興味のある私を色々な場所へ連れて行ってくれました。
ベトナム初のデジタルアートミュージアムでは、オープン前でしたが撮影取材のために特別に入れていただき、初めて入館した日本人となりました。その際に紹介してもらったさまざまなべトナムのアートは、もう一度ベトナムに戻って体験したいと思っています。
また、帰国後にベトナム語検定にも挑戦しましたが、次回ベトナムに戻ったときはもっとコミュニケーションがとれるように、ベトナム語の勉強も続けていきたいと思っています。

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