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後小路雅弘――『Art Through Our Eyes』上映会アフタートーク:FUN! FUN! ASIAN CINEMA@サンシャワーにて

Interview / Asia Hundreds

タイ、フィリピン、シンガポールの名匠が選んだ名画

後小路: 3つ目の作品では、フィリピンのブリランテ・メンドーサ(Brillante Ma Mendoza)監督が、フェルナンド・アモルソロ(Fernando C. Amorsolo)の《Marketplace during the Occupation[占領下の市場]》(1942)という作品を選びました。インドネシアだけでなく、フィリピンも日本の占領下にありましたが、その当時の市場の様子を描いたものです。拡大して見ると、日本兵がいて日の丸と漢字が書かれており、占領下の市場であるということを表しています。フィリピンは、300年以上スペインの植民地であったのちに短い独立を経て、20世紀前半はアメリカの統治下にありましたが、その時代を代表する画家がアモルソロです。官能的な女性像や南海の楽園としてのフィリピンのイメージを、絵画を通してアメリカに広めていった画家で、非常に甘ったるい、感傷的な作品を描いていましたが、日本の占領期には、このように戦禍を受けたマニラの街をドキュメントしています。
ただ、廃墟と化した街並みや戦争の惨禍を描いていながら、どことなく感傷的かつロマンチックに描くのが、アモルソロの本領だろうと思います。また、これを映画化したメンドーサ監督は、日本統治時代と現代の市場を重ね合わせて、非常に厳しい状況の中でも明るさや楽天的な心持ちを失わない庶民のパワーに焦点をあてて作ったということを語っていました。

映画のスチル画像
 ブリランテ・メンドーサ『Amorsolo’s Dream』(スチル)2016年

古市:フィリピンの国立博物館などでは、日本軍が占領下にどういうことをしていたかを伝える作品が多く展示されていますが、他の東南アジアの国で、占領下の作品を描いた作家はいるのでしょうか?

後小路:日本軍の残虐な行為などを戦後になって過去を振り返って描いたものはもちろんありますが、数は多くないですね。シンガポールの有名な「チョプスイ」(作:リュウ・カン)という漫画などもその一例ですが、他の国は独立をめぐる混乱もあって、日本時代を振り返って描く余裕はあまりなかったのかなと思いますね。

4つ目の作品は、有名なタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン(Apichatpong Weerasethakul)監督が手掛けています。1865年、ラデン・サレーがインドネシアのジャワ中央部のボロブドゥール近くにある3,000m級の火山、ムラピ山を描いた2点の作品《 Merapi, Eruption by Day[噴火(昼)]》と《Merapi, Eruption by Night[噴火(夜)]》を選びました。この火山は、インドネシアで最も活発な活火山で、現在も活発に活動しています。これは夜の噴火と昼の噴火をそれぞれ描いた作品です。
ムラピ山は、神様が怒ると噴火するという、一種の神話的なパワーを持つと言われており、それを観察するように描いているのですが、そこには近代的な眼を持つラデン・サレーの近代性と同時に、神話的、伝説的な山に眼を向けるという神話性、両方の眼がこの作品から見て取れると思いますし、アピチャッポン監督もその点に注目したのではないかと思います。アピチャッポン監督自身、この2点の作品を見ているとループする映画を観ているようだとで言っています。この作品の光と影に注目して、アピチャッポン監督特有の夢幻的な世界に移し替えている、そういう作品だと思います。

映画のスチル画像
アピチャッポン・ウィーラセタクン『Ablaze』(スチル)2016年

古市:ちなみに、ラデン・サレーは1850年に(ヨーロッパから)インドネシアに帰り、ジョグジャカルタに住んでいたそうです。20世紀になってから、インドネシアでは「ムーイ・インディ(美しい東インド)」と呼ばれる風景画などがたくさんあったと思いますが、それとは直接繋がらない形の孤高の作家、断絶した作品というふうに考えていいですか?

後小路:20世紀前半に、「美しい東インド」、つまりいまのインドネシアですが、こう呼んで理想化された熱帯の風景画がたくさん描かれています。それを否定していくことで、近代的な美術が出来上がっていくわけですが、ラデン・サレーの直接の弟子はほぼいなかったものの、彼の風景作品に間接的な影響を受けて、おそらく「ムーイ・インディ」と呼ばれる風景画が出来たのだろうと思います。

さて、続いてシンガポールのエリック・クー監督が選んだのが、チュア・ミアティ(蔡名智)というシンガポールの代表的な画家による《Portable Cinema[ポータブル・シネマ]》(1977)という作品です。最後にこの作品が出てくるところが、なかなか味な選択だと思います。子供たちが街頭の「ポータブル・シネマ」の幻灯を見ている場面を描いたものです。「ターザン」や「スーパーマン」が看板に描かれていて、裸足の子どもたちは夢中で見ています。
映画では、子供が映画を見ながら自分でナレーションをしているという設定になっています。劇中でも言っていますが、幻灯機を普通に回すと2分くらいで終わってしまうので、なるべくゆっくり回して見ていたようです。私の幼少期には、日本では紙芝居が非常に盛んでしたが、シンガポールの70年代はこういう情景が見られたのかなと思います。映画の中の映画ということですね。

映画のスチル画像
エリック・クー『Portable Cinema』(スチル)2016年

後小路:チュア・ミアティは、非常にリアリズムな作品を描く、シンガポールでもナンバーワンの描写力を誇る画家です。1959年の《National Language Class[国語の授業]》という作品が代表的で、独立に向けてシンガポールとマレーシアがくっつこうとしている時期のものです。華人系シンガポール人たちが国語の授業で、黒板に「Siapa Nama(シアパ ナマ)」と書いている。マレー語で「お名前は?」という意味で、これはマレー語が国語になっていく、まさにマレーシアと一緒になって新たな国が出来ようとしている場面を描いたものです。ハイリル・アンワルの詩をモチーフにした作品『Aku[おれ]』(ホー・ユーハン監督)の中でも盛んにインドネシア語で「Siapa Nama?」という台詞が出てきますが、ひょっとしたらこれも何か意識しない繋がりみたいなものがあるのかと思います。