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『真っ暗な空』 ソウミヤ・ラジェンドラン/森本美樹 訳(翻訳協力:株式会社トランネット)

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インド)

パンデミック下では、誰もがたった一度の過ちで、取り返しのつかない事態を招きえた。誰かが陽性反応を示したと聞くたび、我々の心には同情や心配の裏に、腹立たしさや相手を責めずにはいられない思いがあった。それは、わざとではなかったにせよ、その人の『無責任』な行動が他人を危険にさらしたことに対する感情だ。ラダとバーラトは私にとって、一緒に暮らしていてもおかしくないくらい身近で、自分自身を映し出す鏡のような存在だ。2人の深い悲しみが薄れることはないだろう。気持ちの整理がつく日は一生来ないのかもしれない。それでも、前に進まなければならない。私は、彼らが暗闇の中で何度もつまずきながらも、再び心を通わせる日が来ることを願っている。

ソウミヤ・ラジェンドラン


真っ暗な空

1段ずつね

梯子は私が押さえてるから

1段ずつ降りるのよ

大丈夫だから

テレビではキャスターが大声で話していたが、ラダにはバーラトが呼んでいるのが聞こえた。何を言っているのかわからなくても、バーラトが何を欲しがっているかはわかる。コーヒーだ。いつだってコーヒー。また椅子から立ち上がらなければならないと思うと、わけもなくイライラする。最近は膝の痛みがますます酷くなって、最初の何歩か脚を引きずらないと歩けないのだ。もうしばらく聞こえなかったふりをするのもありだ。そうすればバーラトが自分でこの部屋まで来なくてはならなくなり、コーヒーはあきらめるかもしれない。前にこの手でうまくいったことがある。

ラダは雑誌のページにじっと見入って顔をあげない。それはメンタルヘルスを判定する四択テストだった。最近では世界中の人々が、鬱と闘っている。こういったことを声に出さないよう気をつけなければ。3か月前だった。クリティカが電話をしてきて、ガールフレンドにプロポーズしようとしていた同僚が(あるいはガールフレンドが彼にプロポーズをした、だったか。ラダは思い出せない)職場でパニック障害を起こしたと話した。そのとき、ラダは「非常に不適切」なことを言ってしまったのだ。

ラダは冗談で、自分の世代は歯の健康にこだわるけど、クリティカの世代は心の健康にこだわるんだね、と言ったのだ。ラダは、最近奥歯を2本抜いた友人のスワーナのことを思い出していた(スワーナは抜歯について微に入り細に入りラダに説明したから)。クリティカは、カンカンに怒った。そんな言い方は非常に無神経であり、母親たち「ベビーブーマー」世代は、目の前を巨大な問題が通り過ぎていっても、まるで何事も無いようにふるまいたがると言った。

ラダはそこで言い争いを始めるべきではなかったのに、たとえばどんな問題?と返してしまった。まるで龍が火を吐く直前に頭をもたげて息を吸うように、娘が大きく息を吸い込むのが聞こえた。そして「お母さんたちの結婚はどうなのよ」と言うと、いきなり電話を切った。

ラダとバーラトは32年間連れ添っていたが、母は離婚すべきだ、というのが長年にわたるクリティカの意見だった。父は「人を傷つけるような存在」だと言うのだ。クリティカは、およそ何に対しても激しい感情を示す。ラダにしてみれば、そんなに何もかもに感情移入していては人生を乗り切ってはこられなかった、というものだ。クリティカは30歳で、1人暮らし。ケトジェニック・ダイエットを実践し、いつも黒っぽい服装をしている。給料の良かった会社勤めを「“倫理観”に反する」との理由で辞め、タミル・ナードゥ州の移民労働者を支援するNGOに参加していた。ラダが言葉にクオテーションをつける習慣もクリティカが嫌うことの1つだった。クオテーションを付けるという習慣自体、クリティカから学んだのに。

「私は言葉を強調するためにクオテーションを使うのよ」とクリティカは言う。「でも、お母さんは、私を茶化すために使ってるんじゃないの」

ラダは、クオテーションでくくるのは、自分自身の言葉ではないからだと説明した。文字通りクリティカの言葉を引用しているのだと。人間はそうやって引用を始めたんじゃないの?そう言うと、クリティカはますます激怒した。

これらの会話を思い出してラダは苦笑した。そして思い出す。もうクリティカと言い争うことはできないのだと。驚いたことに、娘はもういないという現実をつい忘れてしまうのだ。あんなに元気いっぱいで精気に溢れた人間が、あんなにあっけなく死んでしまうなんて。ラダとバーラトは、彼ら自身もコロナに感染していたため、娘の最期に会うことすらできなかった。娘じゃなく私だったらよかったのにと、ラダは担当医に何度も言った。クリティカの肺がコロナに負けてしまったというのに、54歳の彼女と58歳の夫は軽い症状で済んだなんて理解ができない。

バーラトは、クリティカの同僚が悪いと言った。彼らがパンデミックの最中にクリティカに救済活動をさせたからだと。だが、最初に陽性反応が出たのはバーラトだった。ラダが行くなと懇願したにもかかわらず、兄の60歳の誕生日パーティーに行ったのだ。行くのを思いとどまらせようとするラダと言い争ったバーラト。いつだってマスクを顎まで下ろしていたバーラト。

でも、あの週末にクリティカを夕食に呼んだのはラダだった。娘を呼ぶ前に、パーティーに参加した後バーラトがコロナの症状を発していないかを確認するべきだったのに。夕食の最中に、なぜいつも黒い服ばかりを着ているのか、男の子とデートぐらいしたらどうか、などと言って、つまらない口喧嘩を始めてしまったのもラダだった。それから……。

ため息をつく。こんなことを考えたって仕方がない。自責の念と深い悲しみと怒りの感情がぐるぐると回り続け、バーラトの顔を見ることすらできなくなるに違いない。バーラトだって悲しみに打ちひしがれているのはわかっている。痩せてしまったし、風呂場のドアの前で洗濯籠から洗濯物を出しているときに、中でバーラトがすすり泣いているのを何度か耳にした。

そりが合わない2人だったが、2人で何でも話し合える時代もあったのだ。深刻な問題や、将来のとてつもない夢。人生の中でどんな嵐に見舞われても2人でそれを乗り切る絆がそこにはあった。インターネット詐欺で一瞬にして大金を失ったとき。ラダの母親が乳癌にかかったとき。クリティカが7歳のときに、階段の上から下まで転がり落ちたとき。でも今は……、バーラトが、ヨガや前向きな思考について語り、我々は生きていかなければならない、などと言うのを聞くのに耐えられない。どうして生き続けなければならないの。

バーラトが部屋に向かってのろのろ歩いてくるのが聞こえる。コーヒー。コーヒー。コーヒー。ラダは、「私は自分の人生をコーヒースプーンで計りつくしてしまった」とささやいてみる。そして、T・S・エリオットの世界の陰鬱なパーティーに呼ばれている自分を想像した。人の顔を覚えるのは苦手だったが(特に男性は極端にハンサムだったりしない限り、顔も装いも皆同じに見えた)、大学時代に出会った詩の断片は、今でも彼女の頭に残り浮かんでは消え、しばしの間、学生時代に戻らせてくれる。あの頃の女子学生が皆そうだったように、優秀で世間知らずのお馬鹿さん。鏡を見て驚くことがある。目の下のくま。薄くなった髪。口角は常にしかめ面のように下がっている。首には2年前からイボができていた。

バーラトが求めていたのはコーヒーではなかった。「また猫がドアの外で鳴いているんだよ」。ラダが反応してくれるのを期待しながら言う。ラダにどうしろというのか。無視すればいいじゃないの。追い払えば?そもそも、テレビの音を耐えられないほど大きくしているのに、どうして猫の声なんか聞こえるの?どうして私が何かしなければならないの?バーラトは、今日は髭すら剃っておらず、いつも通りタンクトップに短パン姿だ。ゴムのウエストバンドの上に、お腹の脂肪が軽く乗っている。以前は家ではもっぱらルンギー*1を腰に巻いていた。しかしイギリスの大学に進学するクリティカに付き添って初めて海外に行った時以来、バーラトはルンギーの代わりに短パンを履くようになった。彼らにとっては地位が上がった証だ。

*1 腰に巻く布で、高温多湿地域の伝統的な衣装

「そのうちどこかに行くわよ」とラダは返す。でもバーラトは彼女を見つめたまま、そこから動かない。

「いつも餌をやってるあの女性がいないんじゃないか」

ラダが何も答えないというのに、彼は5分間ほど話し続ける。バーラトってラジオみたい。誰も返事をしなくても話し続ける。「あの猫、妊娠してるんじゃないか。この前見たとき、お腹がかなり膨らんでた。ミルクをやってくれないか」

ラダは軽蔑する気持ちを押し殺す。「クリティカが、猫は乳糖を受け付けないと言ってたわ。覚えてないの?あなたは、インドでは猫は何百年もの間ミルクを飲んできた、お前は何も知らないなって言ったのよ。クリティカが最後に夕食に来たときには、あの子にサイマと何を話してたんだって聞いてたわ。クリティカが、最後に夕食に来たときよ」

バーラトはラダの顔を見つめた。彼女の目から涙があふれてきそうなのに気づかないふりをした。前向きでいようとしているのに調子が狂ってしまうから。

自分でミルクをやればいいじゃないの」

バーラトはすっかり面食らう。自分にそんな重労働は無理だと言わんばかりだ。冷蔵庫まで歩いて行き、全身の筋肉を駆使してドアを開け、ミルクを探し出し、それをボウルにあけて猫のところまで運んでやるなんて。そんな大変なことはできっこないと言いたげだった。健康な成人男性なのに。

「気分が良くないの」とラダが言った。具合が悪いわけではないが、そうでも言わないとバーラトは1日中でもポカンとそこに立っているだろう。

「そうか。放っておいたほうがいいんだろうな。1度餌をやると、ずっと餌をもらいに来るようになるかもしれないし」とバーラトが答え、ついでのように「ゆっくり休むといい。すぐに良くなるさ」と付け足した。

その猫は、サイマというイスラム教徒の隣人が餌をやっている野良猫だった。バーラトが実際気に入らないのは、彼女がイスラム教徒だということだ。それに、サイマが未婚で、髪を赤紫に染めているのも気に入らなかった。「髪を赤紫にするなんて、いったいどんな医者なんだ」。バーラトは、ラダが調子を合わせてくれるのを期待しながら、そんな話をするのが好きだ。ラダも以前は、バーラトを満足させようと調子を合わせていた時期があった。心の中では賛同していなくても、彼の言い分に微笑みながらうなずいていた時期が。

それが最近では、バーラトに言い返すようになり、そのたびにバーラトは困惑した様子を見せる。幸い、彼はそんなラダにどう反応していいものかわからず、ただ聞こえないような声でぶつぶつ言いながら部屋を出ていくのだった。

ラダは、ぼんやりと椅子の背にもたれかかる。

目を覚ますと、バーラトが見当たらなかった。ラダは彼を呼びながら家中を探した。彼女は、気づかないうちにバーラトがトイレの中で心臓発作を起こして死にかけるという悪夢を何度も見ていた。だがバーラトはトイレにもいなかった。

どうして玄関のドアが開いているの。

彼女はマスクをつけると外に出た。共有廊下には誰もいない。バーラトの携帯電話に電話をしてみると、呼び出し音が居間から聞こえた。どうして電話を置きっぱなしにしたのかしら。いつもまるで体の一部のように手から離さないのに。

どうしたらいいかわからなかった。サイマの家に行って助けを頼むか。そもそもサイマは家にいるだろうか。

そのときだった。あの猫だ。鳴き声が聞こえる。ラダは自分でもなぜだかわからぬまま、動悸が激しくなるなかその声をたどった。声は屋上から聞こえている。少し馬鹿げていると感じながらも階段を上がった。夫が行方不明だというのに猫を探しているなんて、私はいったい何をしているのだろう。

彼を見たとき、ラダは目にしていることが理解できなかった。バーラトが屋上にある水タンクを支える構造物にぶら下がっていた。タンクに登るための錆びついた梯子は、彼から随分離れたところにある。猫は水タンクの蓋の上にいて、背中を弓なりにさせながらバーラトをけん制するように唸り声をあげていた。

小説の挿絵。高架タンクにぶら下がるバーラトが描かれたイラスト画像
イラスト:サミア・シン

バーラトはラダを見て叫んだ。「ラダ、助かった。死ぬかと思った」

「どうしたの。そこで何をしているの」

「猫が……手が届かなくて……とにかく梯子を!」

梯子って?うちに梯子なんかないじゃないの。魔法でも使って取り出すの?

バーラトの膝では無理だと知りながらも、言葉が口から出た。「飛び降りられない?」

彼女は警備会社に連絡しようと、携帯電話を取りに階下に走った。

「どうかしたの?」

その声を聞いて、ラダはパッと振り返った。サイマだ。マスクの上に出ている黒く縁取った目が心配そうだった。ちょうど仕事から帰ったところらしい。

「バーラトが……バーラトが屋上で宙づりになってるの。高架タンクからぶら下がってるの」

そう言いながらラダはちょっと笑ってしまった。馬鹿みたいだわ。だがサイマは瞬時に反応し、自分の部屋のドアを開けると、ラダが何が起きているのか把握する前に、スチール製の梯子をもって飛び出してきた。

「早く!」と梯子を軽々と抱えたサイマが言う。

バーラトが恥じ入っているのがラダにはわかった。彼の頭にまず浮かんだのはこれで、ご近所みんなに知られてしまうということだろう。サイマは、ぶらぶらと揺れているバーラトのむき出しの脚の下に梯子を置いた。ラダはバーラトが家を出る前にちゃんとした服装に着替えていなかったことに一瞬いら立ちを覚えた。バーラトは手を放すのをためらっている。

だがサイマは医者らしい声で指示した。1段ずつね。梯子は私が押さえてるから。1段ずつ降りるのよ。大丈夫だから。太陽の熱と恥ずかしさで真っ赤な顔になったバーラトは、無事に再び地面に立った。

「猫が鳴き続けていたもので、その……」

「3日前に子猫が生まれたの」とサイマが言った。「仕事が押して病院を出るのが遅れてしまって、餌の時間に間に合わなかったのよ」

「子猫は4匹だよ。見たんだ。水タンクの向こう側の端にいた」バーラトが言った。

サイマがうなずく。「そうなの。子猫たちを家の中に連れてこようと思ったのよ。でも親猫は外に行きたがって鳴き続けるし、1度外に出ちゃったら、家には誰もいないから、もう中に入れないし」

「子猫を拾い上げようとしたら、親猫が怒ってひっかいてきた」。バーラトはそう言うと、薄く血のにじむ脚を指さした。

笑うべきじゃないとわかっているのに、ラダはクスクスと笑ってしまった。ふいにサイマがにっこりとしてバーラトに言う。「あなたが猫好きとは知らなかったわ。どの子か引き取ってあげたら?」

サイマは40歳近いのだろうとラダは思った。でも彼女の赤紫の髪には一本の白髪もない。

「真っ黒の子が1匹いたね。あの子をもらっていいかい?」

バーラトはサイマに向かってそう言いながら、目はラダを見ている。ラダはピンク・オレンジに染まる空を見上げていた。なんて綺麗なんだろう。なんて鮮やかな色なんだろう。「そうね」。ラダが答える。「そうねサイマ、あなたがいいって言うなら、その黒い子をもらおうかしら」