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ホー・ツーニェン――マッピング、虎、そして演劇性:メディアを超えて不定形の歴史を語る

Interview / Asia Hundreds

方法論としてのコラボレーション

滝口:言語について聞かせてください。『一万頭のトラ』はマレー語、中国語、日本語が用いられた多言語作品で、英語は使われませんでした。つまり、あなたがもともと英語で書いたテクストは舞台上では一切発話されなかったわけですね。対照的に、『一頭あるいは数頭のトラ』では英語のみが聞こえてきました。『一万頭のトラ』の多言語の経験と『一頭あるいは数頭のトラ』の単言語の経験とは観客にとって相当に違うものであるように感じました。このような言語 — あるいは「声」と言ってもいいかもしれませんが — の複数性についてどう考えておられますか?

ホー:いい質問ですね。ただ、『一万頭のトラ』では多くの声が聞こえますが、この作品における具体的でアクチュアルな経験というのは、結局のところ一つの言語、つまり英語に還元されるのではないかとも思うのです。なぜなら、使われている多くの言葉は字幕に翻訳されているからです。字幕もまた作品の重要な部分であることを忘れてはいけないと思います。字幕は作品に付属するもの、作品の外部のものだと考えがちですが、私はそうは思いません。ですから、『一万頭のトラ』の舞台装置は、「棚」の一部に字幕を組み込むことを意識してデザインしました。
字幕は棚の3か所に映されます。それによって、観客の視線を棚の特定の部分に誘導するようにしたのです。字幕は上演体験の重要な一部でした。『一万頭のトラ』は漫画や劇画のような作品だったと思うこともあります。観客は、演劇的な形式の中で、字幕のテクストを読むと同時に、私が集めた写真やものを眺めることになります。テクストを読み、絵を眺め、それらの間の関係を考える ― これは漫画を読むことととても近いのではないかと思います。舞台上で話された3つの言語は、ですから、私にとっては作品を構成する音の素材であると同時に、歴史的な素材でもあったわけです。これらの言語は、それぞれの発話者の歴史的な立ち位置を反映し、固有の強度と緊張感を表現していました。

『一頭あるいは数頭のトラ』の話に移りましょう。この作品では、ミュージシャン/シンガーのVindicatrixという一人のパフォーマーと仕事をしたわけです。使用した言語は1つだけです。彼はマラヤの虎として語ることもあれば、大英帝国のために働くイギリス人 — 実はアイルランド人なのですが — としても語ります。このように一つの声が対極にある二つの存在に別れているだけでなく、虎のものでもコールマンのものでもないコーラスとして語る部分もあるのです。

『一頭あるいは数頭のトラ』における発話の方法は、明らかに音楽的です。しかし、『一万頭のトラ』の台詞の発話は、おそらく歌唱、吟唱、詠唱の中間というべき形でおこなわれました。私は舞台で台詞が話されているのを聞くと、いつもいたたまれないような感じがしてしまうのです。特に、シンガポール人が舞台上で英語を話しているのを聞くのは耐えられません。おそらく、私の個人的な事情が原因なのですが。私は標準中国語を母語として育ちましたが、他のシンガポール人と同様に英語で教育を受けました。今、あなたと英語で話しているわけですが、私の脳と口の間には、永遠に克服することができないずれがあると感じてしまいます。私はこれまで、自分には母語というものはないのだと常に感じてきました。言葉については、「ホーム」と言えるものを持っていないと感じてきたのです。ですから、唯一そのずれを埋める方法があるとすれば、それは発話を音楽化することなのだ、という幻想じみた考えを抱くようになりました。

 TPAM2018での上演の写真
『一頭あるいは数頭のトラ』
撮影:前澤秀登

滝口:『一万頭のトラ』の制作の際、マレー語、中国語、日本語 — これは私ですが — の3人の翻訳者が集まって話し合いを持ったことを思い出しました。私たちはそれぞれに割り当てられたパートを個別に翻訳したわけですが、このミーティングはそれぞれの翻訳のトーンやニュアンスを調整することが目的でした。それぞれのシーンにおいてどのような言葉遣いがなされるべきか、非常に細かいコメントをいただいたことを覚えています。多言語演劇では、こうした調整、オーケストレーションが非常に重要なのではないでしょうか。

ホー:オーケストレーションのふりをしていただけですよ。どのように翻訳されているかなどということは、当然わからなかったのですから。翻訳者の皆さんを完全に信頼していました。もちろん、一緒に仕事をする相手には、アイディアや連想をできるだけたくさん提供するようにしています。でも、最後は信頼関係ですね。
『一頭あるいは数頭のトラ』ではミュージシャンと一緒に仕事をしましたが、台本では台詞がどのくらいの長さになるか、1行ごとに正確なタイミングを指定しました。また、どのような音がほしいかというサンプルも提供しました。彼は非常にパワフルで美しい音楽を作ってくれましたが、最初に聞いた時の正直な感想は、「渡したサンプルとは似ても似つかないものになっている」ということでした。でも、コラボレーションの素晴らしさはそういうところにあるのではないでしょうか。

共同作業を始めるときには、できるだけ詳細な「地図」を作ることから始めるのが好きですね。でも、コラボレーターがその地図を何か別のものに変えてしまうことは覚悟しています。可能な限り、想像力を自由に働かせてほしいと思っています。私が作る地図は、ある意味でセーフティーネットとして機能するものだと考えています。コラボレーターたちは作品をいくらでもプッシュすることができますが、創造プロセスの中で迷った時には、いつでもそれに戻ることができるのです。

滝口:そのようなコラボレーションのプロセスの中で、ご自分の役割はどのようなものだと思いますか。演出家でしょうか。指揮者でしょうか。それとも別の役割ですか?

TPAM2018での上演の写真
『一頭あるいは数頭のトラ』
撮影:前澤秀登

ホー:これも答えるのが難しい質問ですね。私は映画のバックグラウンドも、演劇のバックグラウンドもありません。異なる分野の人たちと一緒に仕事をする中で、私が作りだしてきた習慣と言いますか、戦略のようなものなのです。もしかすると、私のやりかたはある種の作曲家の作曲プロセスに近いのかもしれないと思うことがあります。ある特定の時代の作曲家ですね。私は音楽理論はわかりませんが、大の音楽好きではありますので、ヤニス・クセナキスのような作曲家についての本を読むようにしています。
文献によれば、クセナキスの曲というのは、演奏についての極めて厳密な指定がある一方で、逆説的ではありますが、曲の複雑性と密度が演奏者の解釈を要求するものにもなっているのです。これは彼が確率論的プロセスと呼ぶもので、ジョン・ケージの「チャンス・オペレーション」とは全く異なります。クセナキスの音楽は、異なるレイヤーの流れをコントロールするものでした。どのようなものが生まれるかを完全に予想することはできないものの、全体的な音の流れはコントロールされているのです。私が共同制作のプロセスをどのように進めるのかについての説明としては、これが最も近いのではないかと思います。

滝口:近年、多くのアーティストが伝統的なジャンル分けを超えて作品を作っているように思います。昨年のTPAMで上演されたアピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』はその一例です。今年のTPAMでは、さらに多くのジャンル横断的な作品が上演されています。他のアーティストによるこうした作品をどのように見ておられますか?

ホー:自分がジャンル横断的なのかとか、ある作品がジャンル横断的なのかといったことを考えることはほとんどありません。自分の作品を構想する際には、そのようなことを考慮することはないのです。ただ、ジャンル横断というのは、歴史の早い段階から、あらゆるアートに内包されていた特質なのではないかとも思います。そのように語られることがなかったというだけで。例えば、18世紀のフランスの画家であるアントワーヌ・ヴァトーは、神話の描写のように見える場面を多く描きました。我々が現代の目で見るとそうは見えないのですが、そのいくつかは貴族階級が自らの楽しみのために上演させた演劇を描いたものなのです。

モダニズムの時代には、芸術の目的はそのジャンルの真髄を見出すことにありました。例えば、偉大なるモダニズム絵画は「絵」というものの真髄を見出すものなのだという神話が存在し、抽象的・平面的な要素が増していくようになりました。絵画というものはキャンバスに描かれるものであり、キャンバスとは平面であるからです。そのようにして遠近法が消えていったわけです。現在のジャンル横断的な作品に対する我々の見方は、そうしたモダニズムの時代へのリアクションであるように思います。「ジャンル横断」という概念は、モダニズムの時代に別れを告げようとする動きに過ぎないように感じるのです。

しかし、一方では、自分たちの作品をジャンルという縛りを超えて流通させることができるという点ではポジティブな動きであることも事実です。私がアーティストとして最低限果たすべき責任だと思っているのは、それぞれのジャンルの歴史をきちんと理解するということです。そのジャンルの本質を理解しなくてはいけないということではありません。私が使っているさまざまな技法がどのように発展してきたのかという歴史的な事実を知っておこう、知っておくべきだということです。

滝口:最後に伺いたいことがあります。日本についてです。日本は東西という二分法にはうまく当てはまらないところがあります。特にシンガポール人の視点からはそうなのではないでしょうか。東の国でありながら、かつてシンガポールを植民地化した国でもあるわけです。日本の立ち位置をどのように見ていらっしゃいますか?

ホー:興味深い質問です。実は、昨年来このトピックには大きな関心を持っており、将来はそれに関する作品を作ることになるかもしれません。最近、面白い本を読みました。デヴィッド・ウィリアムズの『戦時日本の抵抗の哲学』(Routledge, 2014)という本で、戦争が劇的な展開を見せていた1942年から43年にかけて3回開催された京都学派の哲学者による会議の記録が含まれています。この本のタイトルを見て、最初はこれらの哲学者たちは戦争に反対していたのだろうと思いました。しかし、読み始めてみると、実はその全員が戦争に賛成していたことが分かりました。これは私には衝撃的なことでした。彼らは、アメリカのリベラリズムが最終的に支配的な地位を占めることを — それは戦後にまさに起こったことであるわけですが — 防ぐことが、日本の歴史的な使命であると考えていました。彼らが反対していたのは、戦争の進め方だったのです。多くの点で、彼らは欠陥だらけの理想主義者であったと言えます。おぼろげな未来を追いかけるばかりで、自分たちが生きている時代の状況には目を向けていなかったのです。この本を読んで、まったく新しい視点や言説、戦争へとつながっていく視点や言説を知るようになったのです。

これはシンガポールにおける戦争の理解とは全く異なるものです。我々シンガポール人が歴史上のこの時期を語るとき、日本の関与については完全にネガティブに、一面的にとらえます。私がこの本から得ることができたのは、戦争を正当化する論理ではありません。戦争に向かうさまざまな力や理由があったという複雑性への理解なのです。歴史上のこの時期を紐解き、当時存在したアイディアのネットワークの全貌を見たいという強い誘惑に駆られます。

戦争と日本占領期は、シンガポールではいまだに語るのが難しい問題です。もちろん日本でもそうですよね。しかし、ようやく時が来たのだと思うのです — すべての答えが得られるわけではないとしても、少なくとも対話を始め、歴史の複雑さを単純化してしまわない方法で考え始める時が。私はそう思います。そう願っています。

アジアハンドレッズのインタビューを終えたホー・ツーニェン氏と滝口健氏の写真

【2018年2月13日、KAAT(神奈川芸術劇場)にて】


インタビュアー:滝口 健(たきぐち けん)
ドラマトゥルク、翻訳者。1999年から2016年までマレーシア、シンガポールに拠点を置き、シンガポール国立大学よりPhD取得。数多くの国際共同制作演劇作品にも参加している。アジアン・ドラマトゥルク・ネットワーク創設メンバー。現在、世田谷パブリックシアター勤務。東京藝術大学非常勤講師。

インタビュー撮影:山本尚明