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『アンサナ』 ナディア・ハーン/戸加里康子 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(マレーシア)

アンサナ

ディアナは浮かない気持ちで、ブティック・アンサナの店内に入った。店の外では大勢の客が開店を待っている。アンサナは、ディアナの雇用主、リリアナ社長が経営する高級ヒジャブの店で、今日は会員限定のセールが行われる「特別な」日だ。

しかし2年前とは様子が違う。2年前、普段は物腰柔らかく、礼儀正しい女性たちは、400リンギから150リンギに値下げされたヒジャブを勝ち取るために、ひしめき合い、互いに押しのけあっていたものだ。しかしそれはもうできない。今年は、新型コロナウイルスのせいで、並んで、距離をとる必要がある。中には、すでにマスクをあごの下におろしている人もいた。息苦しいのだ。ディアナは皮肉っぽく微笑んだ。いくら高級品とされているとはいえ、ヒジャブ1、2枚のために命を懸ける人がいるとは思わなかった。第一、着飾って一体どこに行くというのだ。

「おはよう、ディアナ。第三次世界大戦の準備はいい?」同僚のワニが、支払いカウンターの後ろで冗談を言った。

ディアナは弱々しく笑うだけだった。今日は長い一日になるだろう。いつも不思議に思う。莫大な利益があるのに、もっとたくさんスタッフを雇うことはできないのだろうか。この大混乱の日が来るたびに、なぜ自分と2人の同僚だけで、店を回さなければならないのか。給料が上乗せされたり、手当が出るわけでもないのに。

しかしディアナには不平をいう資格はない。毎月給料が支払われ、日々の出費を賄うことができることに感謝しなければいけない。多くの人が職を失っているのだから。それに、友人たちは、アンサナのヒジャブを割引で買えるディアナがうらやましいとさえ言う。その特権を実際に使ったことは一度もないのだけれど。水道、電気、インターネット、Netflixが止められるぐらいだったら、安いヒジャブをつけている方がいい。

ディアナは店の外の人波に目を向けた。大多数は自分と同じ年頃の若い女性だ。ディアナは彼女たちの服装を細かくチェックし始めたが、自分以外にもう1人、遠くから彼女たちのことを見つめている人物がいることには気づかなかった…。

ハスナンは、ブティック・アンサナの向かいにあるコーヒー・ショップに座っていた。カレーをたっぷりかけたロティ・チャナイはずいぶん前に食べ終わっていた。水を何杯もおかわりしたため、さらにもう1杯頼んだ時には、インド系ムスリムの店主が、じろりと睨んできたほどだ。

ハスナンは汗ばみ続ける手のひらを、ズボンにこすりつけた。腰にしっかりと止めている小さなバッグを何度もさする。どこかにいってしまうことはないとわかってはいても、中身がきちんと入っていることを確認しないと気が済まないのだ。

ブティック・アンサナの外から叫び声がかすかに聞こえてくると、彼は顔を上げた。人々は店になだれ込み、ソーシャル・ディスタンスなどすでに忘れられていた。ハスナンが勤務中だったら、全員に反則切符を切ることができただろう。袖の下を集めたら、結構な金額になったかもしれない。彼は考えた。しかしたったそれだけだ。より多くの報酬を得るために、彼は今日ここに来たのだ。

先週、家のインターネット回線が止められたとき、娘は正気を失ったようにわめき散らした。家ではずっと食材も不足していて、ハスナンに不満を溜めこんでいた妻は、官舎の棟全体に響きわたるほど叫んでいる娘に、何も注意をしなかった。息子は我関せずを決め込み、最新モデルのiPhoneをいじっていた。そのスマホを買う金を、息子はどこから得たのだろう。そう心に浮かんだが、ハスナンは実際に訊ねてみたことはない。答えを聞くのが怖かったからだ。

ハスナンの懐具合は、ずっと前から苦しかった。月々の給料は、切迫する家計を賄うのに十分ではなかった。銀行からの借金は審査に通らないため、他のところから借りるしかなかった。始めはいいが、後が怖い、だ。その「怖い」は、2日前にやって来た。いつも食材を買う店の外で、屈強な男たちに襲われたのだ。彼らとて、官舎やハスナンの職場で襲ってくる勇気はないだろう。赤いペンキをぶちまけるのは利口なやり口とはいえない。しかし、赤ペンキをまかれていた方がよかったかもしれないとハスナンは思う。2日前起きたことに比べれば。

ハスナンは、包帯が巻かれた左手の小指を見た。指先は切り落とされている。何で切ったのかはわからなかったが、痛みは骨を貫いた。高利貸しの手下たちは、ハスナンに警告した。今月末までに5万リンギの借金を返すことができなければ、指の先っぽだけでなく、両手をボスが飼っている犬の餌にするぞ。

ハスナンの電話が光った。メッセージが届いたしるしだ。両手がなくなっていなくてよかった…。しかしメッセージの中身を見たとき、手を失い、電話のボタンを押せない方がよかったと思った。

「離婚して」

妻がこのメッセージを送ってくるのは、初めてではない。6か月前から、何度もそれを口にするようになった。相手にしないでいると、メッセージアプリWhatsAppで、メッセージを送ってくるようになった。1か月前から毎日だ。

ハスナンはため息をついた。いつものように返事はしなかった。

20年以上に及ぶ結婚生活は、最初からこんな風だったわけではない。ハスナンにだって夢や野望はあった。家族には楽な生活をさせてやりたかった。日々の仕事以外に、さまざまな方法を試した。芋のチップスを売ったり、トンカッアリ入り精力剤ドリンクの取次ぎをしたり、配車サービスGrabの運転手をしたり。マルチ商法を試してみようとしたこともあった。彼は同僚の真似はしなかった。彼らは、ナイトクラブで押収した錠剤を売りさばいたり、路上勤務のとき、違反を犯した運転手たちにつけこんだりすることで、副収入を得ていた。彼らの生活も今は苦しい。ナイトクラブはまだ営業できないし、こんな時期に出歩く人はあまりいない。

そして今日ハスナンは、より大胆な手段に訴えると心に決めていた。これからすることは、間違ったことではないという確信がある。富を持つ人間は、困窮する人間とその恩恵を分かち合うべきではなかったか。

ハスナンは立ち上がり、朝食代を支払った。マスクをつけ、ブティック・アンサナの脇にある路地に向かって歩き始めた。

「でもこのヒジャブ、ちょっと破れてるじゃない。」

1人の客が文句を言った。ディアナは嘲笑を浮かべそうになるのをこらえた。見間違いでなければ、この客が棚にあったヒジャブを乱暴にひっぱって、端が少し破れたのだ。それなのに、今それを利用して、値引き交渉しようとしている。

「もしこのヒジャブがお気に召さないのであれば、棚に戻して、他のヒジャブをお持ちください。申し訳ありませんが、決められた額以上に値下げすることはできません。」仕事熱心で、雇用主が決めた規則を十分に理解しているディアナは、きっぱりと答えた。

「この破れたヒジャブのこと、ネットに流してもいいの?この店のヒジャブは質が悪いって、世間に知られちゃうのよ。」

「お客さま、当店は防犯カメラを設置しております。」ディアナは短く答えた。

客は黙り込み、顔をしかめた。そしてヒジャブを支払いカウンターの上に置き、言った。「わかった。払います。このヒジャブは破れてるけどね。気前のいい客でよかったわね。」

ディアナは何も言わなかった。客が支払いのためにデビット・カードを取り出したとき、ディアナは、支払いカウンターの上に見えるように出してある注意書きを手で示した。支払いは現金でのみ承ります。

「は?いい商売してるわね。デビット・カードが使えないなんて!」客は嫌味を言った。

「向かいの店の並びにATMがございます。」ディアナは答えた。

「面倒くさいわね!」その客は、鼻息を荒くした。「このヒジャブ、取り置きしておいて!他の人に渡さないでよ!」彼女は脅すように言い捨てた。

ディアナは大声で笑いそうになったが、笑みを浮かべる間もなく、大きな銃声が彼女と店全体を驚かせた。

すぐに店内は大混乱に陥った。叫びだす人もいれば、パニックを起こす人、ただ驚いている人もいた。ディアナは、仮面をつけ、全身黒ずくめの男が1人、拳銃を手にしているのを見た。さっきブティックの天井を撃ち抜いた拳銃だ。その破片が床に散らばっていた。

ドアの近くに座っているネパール人警備員は目を丸くしていた。きっと自分が本当に出動する日が来るなんて、考えたことがなかったのだろう。それとも、こんな状況に対処できるスキルを自分が全く持っていないことに気づいたのかもしれない…。彼は逃げた。そう!彼は渾身の力で店から飛び出し、逃げていった。

その男は、ディアナに拳銃を向けた。

「店を閉めろ。」最初の指示を出した。

震える手で、ディアナは店の外の自動シャッターを下ろすためのボタンを押した。ゆっくりとブティック・アンサナの店内が暗くなった。

「命が惜しい奴は、俺の前に並べ!早く!」

全員怯えながらも大慌てで動き、数分のうちに、その仮面をつけた男の前に列を作った。どのような列を作ったらいいのか訊ねる人はいなかった。まるで全員がテレパシーで通じ合っているみたいに、学校の集会のように整列した。

全員スマホを脇に置き、しゃがむよう命令された。破れたヒジャブ/デビット・カードの客は、店から出ていく途中で、列の一番前になってしまったようだった。そして今仮面をつけた男の拳銃は彼女に向けられている。

「お前から始めよう。そして全員同じことをしろ!財布から現金を全部出せ!」仮面男が次の指示を出した。

泣きそうな声で、先ほどの客は言った。「私…現金を持ってないんです。」

その男は仮面をつけていたが、ディアナは体の動きから、男が困惑しているのがわかった。「この店は現金払いだけじゃないのか?」彼は訊いた。

大笑いしたい気分がまたしても胸の中に広がったが、ディアナは我慢した。強盗犯でも現金払いなのを知ってるっていうのに!

「ちょ、ちょうどATMに行こうとしていたところだったんです。」その客は答えた。

「立て!」仮面の男が叫んだ。

その客が立ち上がると、男は彼女を人質にした。頭に拳銃を向け、「俺の言うことを聞かないやつがいたら、こいつは死ぬことになる。」と脅した。

人質になった客が恐怖で泣く中、全員財布から現金を取り出した。仮面男は、かばんを出し、金をすべてそのかばんに入れるよう人質に命じた。ディアナは仮面男が、ただ現金を奪うのではなく、時には止まって、何か考え、質問することさえあると気づいた。

「この店で2000も使うつもりだったのか!?」上品な服装をした客に男が訊ねた。彼女が勇気を出せば、履いている厚底靴は武器になるのではないかしら。ディアナはふと思った。

客は弱々しく頷くだけで、ディアナは男が首を振っているのを見た。普段着のような恰好をした40代後半の客は200リンギ差し出した。

仮面男は彼女を見つめた。「たった200リンギ?この店じゃ、ヒジャブ1枚しか買えないんだぞ、わかってるのか?」

その客は勇気をふりしぼり、顔を上げ答えた。「子どもの…誕生日プレゼントを買いたかったんです。本当にほしがっていたので。」

「何の仕事をしてるんだ?1か月の給料は?」男は訊ねた。

その客は恥ずかしがって答えようとしなかったが、人質に何かあってはいけないと、最後には口を開いた。「清掃員です。給料は1か月1800リンギ。」

「子どもは何人だ?」

「よ、4人です。」

「だんなは?何の仕事してる?」

その客は、首を振っただけだった。

仮面男は長いため息をつき、その客に200リンギ返した。

強盗犯にも情けがあるのを見て、懇願したり、それぞれの悲しい物語を話す人が出始めた。ずっと貯金していた、今年メッカへ巡礼に行けなかった母親を慰めるためにヒジャブを買いに来た、などなど。しかし、さきほどの清掃員の女性のように幸運を得た客は1人もいなかった。

客全員から全ての現金を集めると、仮面男は、人質を支払いカウンターの方へ押していき、ディアナをまっすぐに見つめた。「お前はここのスタッフだよな。レジの金を全部出せ!早く!」

ディアナは従った。強盗犯のかばんに金を入れながら、この事件のせいで、自分の給料が減らされたりしないだろうかと考えた。ありえないことではない。彼女の雇用主は、自分だけが正当だと思う理由で、スタッフの減給処分をすることで有名なのだ。

かばんに金を入れ終わると、強盗犯はディアナに裏口を教えるよう命じた。ディアナはやはり従った。この強盗はこのまま逃げおおせてしまうだろう。雇用主は、このブティックに緊急通報ボタンや防犯ブザーをつけようと考えたこともないのだから。店にかけている保険で補填できるのかもしれない。

どうでもいい。大事なのはディアナの金は財布の中で無事だということ、もう命の危険はないということだ。ディアナは、仮面男が走って、ブティック・アンサナからどんどん遠ざかり、裏の路地の間に消えていくのを、ぼんやりと見つめていた。同僚のワニは、通報の電話をかけている。

「リリアナ社長、午後4時にメディアに声明を出す必要があります。」個人秘書のライサが、社長所有のベルファイヤーの中で言った。2人は後部シートに座り、運転手が次の会議の場所へ車を走らせているところだった。

どれぐらい取り戻せたのかしら?」リリアナは英語で訊いた。英語の方が得意なのだ。

「2万820リンギです。」

「そんなに多くないわね。」それほど気にする様子もなく、社長は答えた。

「強盗犯のことは告訴するのですよね?」

もちろん。泥棒にかける情けなんてないわ。強盗なんて怠け者のすること。人を襲うことしか能がないの。認めることなんてできない。私が今の地位にいるのは、それだけ努力をしたからなのよ、わかるでしょ?

ライサは同意を込めて、何度もうなずいた。

リリアナの電話が鳴った。ライサは社長の代わりに電話に出ようとしたが、液晶に父親の名前が表示されているのを見たリリアナは、ライサの手からスマホをとった。

もしもしパパ。ええ、今向かってるところ。」リリアナは電話に向かっていった。

ライサは腕時計を見た。タン・スリ・ジャマルのオフィスに遅れずに到着できることを祈りつつ。タン・スリは規律を重んじる人で、遅刻を嫌う。自分の子どもでさえ。ライサは、この会議がリリアナ社長にとって大切なものであることを知っていた。東京に新しいブティックを開くために、タン・スリ・ジャマルが350万リンギの資金を提供してくれることになっているのだ。

「リリアナ社長、忘れる前にお伝えしておきます…。活動制限令中のモルジブ旅行のInstagramの投稿ですが、コメント欄をオフにしておきました。」ライサは言った。先週社長のSNSチームが大きなミスを犯して、社長はひどく叩かれた。ネット・ユーザーは、リリアナ社長は他の人とは違うのだということを理解していないのだ。会社を大きくするために一生懸命働いて、休息が必要だったということを。

ライサは上司の状況をきちんと理解していた。リリアナ社長が自身の成功について語るフォーラムに参加したこともある。社長は、成功の秘密は不屈の精神だと言っていた。私たちは常に解決策を模索し、一生懸命努力しなければならない。

そう、ライサは成功したかった。いつかリリアナ社長のようになるのは不可能なことではない。社長は、自分より2つ年上なだけだが、ライサがこの2年の間に成功を収めることができないと、誰が断言できるだろう。

成功の秘密は不屈の精神、なのだから。


ナディア・ハーン氏が作品の冒頭をマレー語で朗読しています。お楽しみください。